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長谷寺

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01.gif起源と歴史

伝承では長谷寺の創建は奈良時代とされているが、中世以前の沿革は明確でなく、創建の正確な時期や経緯についても解明されていない。

寺伝によれば、天平8年(736年)、大和の長谷寺の開基でもある徳道上人を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。この十一面観音像は、観音霊場として著名な大和の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたという。すなわち、養老5年(721年)に徳道は楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体(本)を本尊としたのが大和の長谷寺であり、もう1体(末)を祈請の上で海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺であるとされる。

当寺の梵鐘には文永元年(1264年)、当時の住職真光の勧進により鋳物師物部季重が造った旨の銘文があり、この頃には長谷寺が存在していたことと、当時は「新長谷寺」と呼ばれていたことがわかる。鎌倉時代にさかのぼる遺物としては他に弘長2年(1262年)および徳治3年(1308年)銘の板碑、嘉暦元年(1326年)銘の懸仏(かけぼとけ)などがある。

近世の地誌『新編鎌倉志』や、寺に伝わる『相州鎌倉海光山長谷寺事実』などによると、歴代の権力者が長谷寺の伽藍や本尊の修造を行っている。康永元年(1342年)には足利尊氏が伽藍と諸像の修復を行なった。明徳3年(1392年)には、足利義満が観音像の光背を修復し、行基の作という伝承のある像を前立(まえだち)として安置した。天文16年(1547年)に、北条氏康の寄進を受け、天正19年(1591年)、徳川家康から朱印状を受ける。慶長12年(1607年)、堂塔伽藍を改修し、正保2年(1645年)にも、酒井忠勝が堂宇を改修している。

03-2.jpg長谷寺は江戸時代の初め、慶長12年(1607年)の徳川家康による伽藍修復を期に浄土宗に改宗した。当時の住持玉誉春宗を中興開山としている。明治以降に単立となった。

伽藍

観音堂等の主要な堂宇は海を見晴らす高台に建てられている。諸堂は関東大震災で倒壊後の再建である。長谷寺は文人とゆかりが深く、境内には高浜虚子の句碑、久米正雄の胸像などがある。高山樗牛は明治34年(1901年)、ここに住んだことがあり、その記念碑もある。

* 観音堂 長谷観音と呼ばれる十一面観音像を祀る。奈良の長谷寺の観音像と同じ、錫杖と水瓶とを持つ長谷寺式の像容である。

* 阿弥陀堂 観音堂の右に位置し、厄除阿弥陀と呼ばれ、鎌倉六阿弥陀に数えられる阿弥陀如来像を祀る。源頼朝が造立した像という伝承があるが、実際の制作は室町時代とされる。

* 大黒堂 観音堂の左に位置し、鎌倉江ノ島七福神の1つに数えられる大黒天像を祀る。応永19年(1412年)作の大黒天像は宝物館に移され、現在は新しい大黒天像が祀られている。

* 地蔵堂 観音堂などの建つ高台へ上る参道の途中に建つ。

* 弁天堂 弘法大師が刻んだという伝承をもつ弁財天像を祀る。堂の奥には弁天窟がある。

* 経蔵 輪蔵と呼ばれる様式。

04.gif所在地 神奈川県鎌倉市長谷3-11-2

交 通:長谷駅より徒歩5分

連絡先:0467−22−6300

http://www.hasedera.or.jp/

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