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清水寺

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1-4.gif清水寺の創建については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正17年(1520年)制作の『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)に見えるほか、『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦17年(798年)記などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁起は大略次の通りである。

宝亀9年(778年)、大和国興福寺の僧で子島寺で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。

2-5.gifその2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758年 – 811年)は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。

延暦24年(805年)には太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。『枕草子』は「さわがしきもの」の例として清水観音の縁日を挙げ、『源氏物語』「夕顔」の巻や『今昔物語集』にも清水観音への言及があるなど、平安時代中期には観音霊場として著名であったことがわかる。

3-2.gif清水寺の伽藍は康平6年(1063年)の火災(扶桑略記に言及)以来、近世の寛永6年(1629年)の焼失まで、記録に残るだけで9回の焼失を繰り返している。平安時代以来長らく興福寺の支配下にあったことから、興福寺と延暦寺のいわゆる「南都北嶺」の争いにもたびたび巻き込まれ、永万元年(1165年)には延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡している。現在の本堂は上記寛永6年の火災の後、寛永10年(1633年)、徳川家光の寄進により再建されたものである。他の諸堂も多くはこの前後に再建されている。

平安時代以降ー延暦24年(805年)には太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。『枕草子』は「さわがしきもの」の例として清水観音の縁日を挙げ、『源氏物語』「夕顔」の巻や『今昔物語集』にも清水観音への言及があるなど、平安時代中期には観音霊場として著名であったことがわかる。

清水寺の伽藍は康平6年(1063年)の火災(扶桑略記に言及)以来、近世の寛永6年(1629年)の焼失まで、記録に残るだけで9回の焼失を繰り返している。平安時代以来長らく興福寺の支配下にあったことから、興福寺と延暦寺のいわゆる「南都北嶺」の争いにもたびたび巻き込まれ、永万元年(1165年)には延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡している。現在の本堂は上記寛永6年の火災の後、寛永10年(1633年)、徳川家光の寄進により再建されたものである。他の諸堂も多くはこの前後に再建されている。

4.gif三職六坊ー豊臣秀吉は清水寺に130石の寺領を安堵し、徳川幕府になってもこの寺領が継承された。近世の清水寺は「三職六坊」と呼ばれる組織によって維持運営されていた。「三職」とは寺主に当たる「執行」、副寺主に当たる「目代」、寺の維持管理や門前町の支配などを担当する「本願」を指し、執行職は宝性院、目代職は慈心院、本願職は成就院がそれぞれ務めた。「六坊」はこれに次ぐ寺格を有するもので、義乗院、延命院、真乗院、智文院、光乗院、円養院の6か院である。

このうち、宝性院は仁王門北方に現存する。慈心院は本堂のみが随求堂(ずいぐどう)として残っている。成就院は近代の中興の祖である大西良慶(後述)が住坊とした所で、境内北側に位置し、現在は清水寺本坊となっている。「六坊」の6か院はいずれも境内南方にまとまって所在したが、このうち真乗院は織田信長によって廃絶され、以後は成就院によって寺籍のみが継がれていた。義乗院、智文院、光乗院、円養院も廃仏毀釈の時期に廃絶し、現在は延命院が残るのみである。

明治維新までは、清水寺は法相宗に真言宗を兼ねていた。その名残が大日堂や三重塔に残されている。

近代ー近代に入り、大正3年(1914年)には興福寺住職・法相宗管長であった大西良慶(1875 年 – 1983年)が清水寺住職に就任する。大西は昭和40年(1965年)に法相宗から独立して北法相宗を開宗、初代管長となった。大西は昭和58年(1983年)、満107歳で没するまで70年近く清水寺貫主を務め、「中興の祖」と位置づけられている。大西は昭和41年(1966年)に月2回の北法相宗仏教文化講座を開始、昭和49年(1974年)には日中友好仏教協会を設立するなど、仏教を通じた国際交流、平和運動、文化活動などに尽力した。

境内の概要ー境内は標高242メートルの清水山(音羽山)中腹に石垣を築いて整地され、多くの建物が軒を接するように建ち並んでいる。入口の仁王門を過ぎ、西門、三重塔、鐘楼、経堂、田村堂(開山堂)、朝倉堂などを経て本堂に至る。本堂の先、境内の東側には北から釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院が崖に面して建つ。本堂東側の石段を下りた先には寺名の由来でもある名水が3本の筧(かけい)から流れ落ちており、「音羽の滝」と呼ばれている。音羽の滝からさらに南へ進むと、「錦雲渓」と呼ばれる谷を越えた先に塔頭寺院の泰産寺があり、「子安塔」と呼ばれる小さな三重塔がある。北には清水寺本坊の成就院がある。

このほか、本堂のすぐ北隣に地主神社(じしゅじんじゃ)があり、明治以降は神仏分離により独立したが、もともとは鎮守社として清水寺の一部であった。

5-2.gif本堂ー国宝。徳川家光の寄進により寛永10年(1633年)に再建されたもの。「清水の舞台」とも呼ばれる。屋根は寄棟造、檜皮葺きで、正面(南面)左右に入母屋造の翼廊が突き出し、外観に変化を与えている。建物の前半部分は山の斜面にせり出すようにして建てられ、多くの長大な柱(139本という)が「舞台」と呼ばれるせり出し部分を支えている(釘は使われていない)。このような構造を「懸造(かけづくり)」、あるいは「舞台造」と言い、観音菩薩は補陀洛山(ふだらくさん)に現われるという『法華経』「観世音菩薩普門品」(観音経)の所説に基づくものである。なお、同じく観音霊場である長谷寺や石山寺の本堂も同様の「懸造」である。

内々陣には、3基の厨子が置かれ、中央の厨子には本尊の千手観音立像、向かって右の厨子には毘沙門天立像、左の厨子には地蔵菩薩立像をそれぞれ安置する。三尊とも秘仏である。6-2.gif本尊厨子の左右には千手観音の眷属である二十八部衆像を安置し、内々陣左右端には風神・雷神像が安置される。

思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と言うが、清水寺の古文書調査によれば、実際に飛び降りた人が1694年から1864年の間に234件に上り、生存率は85.4パーセントであった。明治5年(1872年)に政府が飛び降り禁止令を出し、柵を張るなど対策を施したことで(これは写真に残っている。)、下火になったという。

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 アクセス方法  京都 清水寺までのアクセス

 地図  京都 清水寺の地図(グーグルマップ)

 駐車場情報、料金 1キロ圏内に100台以上 有料駐車場、コインパーキングあり

 京都市公営駐車場

 営業時間  6:00~18:00 時期によって特別拝観あり

 利用料金  拝観料 大人300円、小、中200円

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 施設住所  京都府 京都市東山区 清水1

 問い合わせ先  電話番号 TEL 075-551-1234

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