老死とは、老いて死んでゆく人間にとっての厳粛な事実であり、生もまた生まれることである。しかし、これは単なる生命現象としてではなく、老死によって無常苦が語られ、また生においても苦が語られている。そうでなければ、釈迦の成道に何らの関係もない。したがって、老や死は苦悩の具体的事実である。これは無常苦の中を行き続ける自己を見つめることで、喜と楽による幸福の儚(はかな)さを物語るものであり、人間生存自身の無常苦を意味する。この点で、生も単なる生命現象としてではなく、無常苦の起因、根本として求められたものとされる。
「老死がなぜあるか、それは生まれてきたから」では無常苦の解決にはならない。生も苦、老死も苦、人生そのものが苦と、ここに語られる。生老死がなぜ苦なのか、毎日の生活が生老死に苦を感ぜずにはおれないような生活だからである。その生活こそ生老死を苦とする根本であり、それを有という。生活の行為が生老死を苦と感じさせるのはなぜかというと、常に執着をもった生活をしているからである。とくに、自分自身と自分の所有へのとらわれが、その理由であり、取による有といわれる。その取こそ愛によるのである。
経典は、この愛について三を説いている。
* 有愛(bhava-taNhaa) – 存在欲。生きることを渇望する心。
* 非有愛(vibhava-taNhaa) – 非存在欲。有愛がはばまれる時に起こる、死を求める心。
* 欲愛(kaama-taNhaa) – 有愛・非有愛が外部にむかっておこること。自分の生を願い、また呪い、他人の生を願い、また呪うことである。
生命を願い、また呪う。このように、矛盾したものが同居している生命であるところに人間苦の根本がある。この生命の秘密を明らかにすることこそ、人生苦の克服の道とする。
これは単に生命の否定ではない。その生命の深淵を自覚しなければならない。それこそ受・触・六処・名色・識によって示される心の構造であり、その意識をまちがわせる無明とその行とである。すなわち、無明を克服し、すべてを一体と自覚せしめる智慧こそ、人生苦を克服する働きをもつという。
このように十二因縁は、迷と苦が無明を原因とし、渇愛を源として展開していることを明らかにする。したがって、無明を克服して智慧を得れば生老死の人生苦はない。すなわち、自我への執着をはなれ、無我の自覚に立ちかえることが、仏教の指針とされる。
無明の克服とは自我を拠り所とする我執の克服をいう。これは無我の自覚であり自己否定である。またこれはいっさいの否定であり、絶対無となる。したがって生活や生命の営みの否定とされる。そこには生活はありえない。しかし、釈迦のさとりは単なる自己否定ではなく、それが本当の生活であったはずである。すなわち、無我である自己を破り去ったところに、かえって無我のまま復活しうる道があった。それこそ真実の縁起の自覚であり、仏教が仏道として生きていく指針となるのは、無我のまま生活を決然と生きていくということである。
ウィキイ から