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普化禅師

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唐の宣宗時代の大中年間(847〜859年)、普化(ふけ)という傑僧がいた。盤山宝積(ばんざんほうしゃく)禅師に師事して真訣を受け、あたかも狂僧のごとくふるまい、師の寂後は北地に遊んだ。常に手には一鐸を持ち、人を見るごとに振り歩いた。彼を顧みるものがいると、手をさしのべて「我に一銭を与えよ」と言ったという。また、振鐸しながら「明頭来也明頭打、暗頭来也暗頭打、四面八方来旋風打、虚空来也連架打」と唱える。意味は次のとおりである。

 明頭来也明頭打 賢い頭が来たならば、賢い頭を打ってやれ

 暗頭来也暗頭打 愚かな頭が来たならば、愚かな頭を打ってやれ

 四面八方来旋風 四方八方来たならば、旋風のように打ってやれ

 虚空来也連架打 虚空が来たならば、棒をもって打ってやれ

 住処は定まらず、夜は墓場、昼は街に出かけ、時には歌い舞い、時には悲しい声をあげ、時の人はみな彼を狂風の和尚と呼んだ。咸通3年(862)二月、市井で衣を乞うた。人は衣を与えたが「こんなものはみな必要でない」といった。そこで臨済は棺桶を買って「私はおまえのためにこのような衣を買ってやった」といった。

 臨済は悟りを開いた後、師の黄檗の下を去って北の方、河北の鎮州にきて教化を行った。この臨済の教化を助けて、鎮州の地に臨済禅を実らせ、教化なるやいなや、風のごとく立ち去ったのが狂僧、普化である。臨済と普化は微妙な関係にあった。普化の佯狂(ようきょう)といわれる誇り高い半俗的態度が、おそらく多くの人を魅きつけた。そして、同時に、彼は、臨済及びその弟子たちに、厳しい禅的態度を教えた。

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 しかし、普化も彼自身自己の役割を知っていたはずである。彼はおのれを空しくして、臨済の仕事を助けた。しかし、一つの教団ができたとき、彼のような人間は不用になる。彼はどんな集団の中にも生きられない例外者であった。

 普化は棺を担いで歩きながら叫んだ。「臨済はわしのためにこんな衣を買ってくれた。今日東門を出て遷化しよう。」。人々は彼について東門に行くと、普化はまた言った。「今日は吉日ではない。明日南門で遷化しよう。」翌日人々が南門に見送りに行くと、彼はまた言った。「明日の西門がちょうどいい。」このようなことを三日間続けると、見送る人々もあきれ果ててだんだん減ってしまった。四日目には普化一人で城門を出て棺に入り、通りかかった人にくぎを打ってもらった。人々はそれを聞いて駆けつけて棺を開いてみると、中には誰もいない。ただ雲間から普化禅師の振鈴の音が遠く響き渡るばかりであった。この時普化は世寿83歳だった。

 この風狂の和尚は、中国の古い管楽器である尺八と切っても切れない縁で結ばれている。振鈴して人々を教化し、行雲流水のように道を歩む普化禅師の姿に敬慕する、河南府から鎮州に来た張伯居士がいた。彼は禅師の徳を敬い、振鐸の音に惚れこんでいた。ある日彼は禅師の前に来て弟子入りを請うたが、普化は「わしは弟子をとらない。」と断った。しかし張伯はあきらめず、自分の好む竹管で常に禅師の振鐸の音色を真似してほかの曲を吹かず、自ら虚鐸と号した。そこから中国史上唯一今に伝わる名曲「虚鐸」が誕生した。今から約1150年前のことだった。

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