ホーム ヂィレクトリ 教師 玄奘大師

玄奘大師

86
0

玄奘大師は歴史の中で有名な仏学大師です。仏教経典の翻訳家であり、隋と唐の法相宗の創始者でもあります。彼の前半生は命も顧みず仏法を求めて西域へ出掛けました。19年近く2500キロを歩き足跡は西域、印度等118カ国に及んでおります。後半生は経典の翻訳に力を入れて75部、1335巻を完成し、中国仏経史の四大翻訳家の一人に数えられております。彼の重要な著作「大唐西域記」は中国と西域の文化関係史、交通史に貴重な資料を提供し、中国の歴史に輝く一ページを残しました。

生涯事跡

p3.gif玄奘大師(西暦602〜664)、洛陽緱氏県(河南偃師)人です。俗名は陳褘、法名は玄奘です。隋文帝仁寿2年に生まれ、経律論三蔵に精通するため三蔵法師と呼ばれました。また慈恩寺に住んでいたので慈恩大師とも呼ばれました。玄奘は名門貴族の出身で、祖先は歴代の役人を務めておりましたが、父母が早く亡くなったため、一番上の兄が洛陽の浄土寺で出家し、法号長捷となりました。玄奘は幼い時から兄に従って経典の誦読を学び、儒家、道家、百家の典籍を嫻熟し、兄の影響を大きく受けました。

十三才の時出家したいと当時の大理寺卿鄭善果に申し出て「まだ小さいのに出家して僧侶になりたいとは何をしたいからですか?」と聞かれました。玄奘はすぐに答えました:「私は遠い目標として釈迦如来の家業を紹介し、近い目標として佛教の大法を光らせたいのです。」鄭善果はその応答のよさに感心し、破格的に沙彌の身分で僧籍に入らせ、法名玄奘としました。出家後名師を参訪し、各地を遊歴しました。彼は洛陽、長安、成都、相州(河南)、趙州を訪れましたし、(涅槃)、(摂論)、(毘曇)、(成實)、(倶舎)等経論も学びました。そのなかの(摂論)、(倶舎)は当時はまだ新学に属し、真諦によって南方で翻訳され伝播したもので、(涅槃)、(成實)、(毘曇)はずっと北方で流行していたものです。したがって、玄奘は当時の南北に伝わっていた仏学を全部研究することになりました。しかし、各所の説明の仕方が異なっているのを発見し、とくに諸漢訳佛典の解釈の不一致がどうやら人を迷わせているのではないかと考えました。そして西域へ行ってお経を取得し、梵文原典のルーツを追求し考証して大衆の疑問を解こうと思い大願を発心しました。

紀元629年、長安から出発して困難且つ険しい過程を経てやっと那爛陀寺に辿り着きました。那爛陀寺は当時インドでは最も壮麗崇高な寺であり、インドを統一した戒日王が統治していた巨大な佛学院でもあります。那爛陀寺を主事していたのは仏教宗師の戒賢でした。戒賢は「正法蔵」と呼ばれていました。戒賢の下で(瑜伽師地論)、(顕揚)、(娑婆)、(倶舎)、(順正理)、(対法)、(因明)、(声明)(中)(百)などの論やバラモン経典とインド六派哲学の思想論を前後計五年間学習しました。その後、五インドを周遊し、仏教聖地を遍歴して有名学者を訪問しながらインドの風俗を調べました。更にインドに居った時に仏学を研究し、(会宗論)、(制悪見論)を書きました。仏教史上の名著になっています。戒日王は大乗有宗をもっと広げようと玄奘大師の為に盛会を開きました。盛会に参加した人には五インドの国王及び僧俗など計何十万人でした。十八日間にも渡り弁論をしましたが誰一人として玄奘大師のことを責めることはできませんでした。これによって、玄奘大師は大小乗各派に尊敬されるようになり、大乗仏教徒からは「大乗天」、小乗仏教徒からは「解脱天」と尊称されました。

紀元645年、正月に長安に戻りました。大小乗仏教経典(五百二十筴、六百五十七部)を19年も離れていた中国に持ち帰り、唐太宗及び唐高宗に大変欽重され大内に供養しました。それにより玄奘大師は「三蔵法師」と言う名号を授かりました。玄奘大師は弘福寺、大慈恩寺及び玉華宮で経典を翻訳しました。亡くなる一ヶ月前まで合計20年翻訳の仕事が絶えたことはありませんでした。彼の翻訳は大体三段階に分けられます。

1.紀元645年—650年

瑜伽師地論を中心に翻訳しました。この論の学説に相関する著作も翻訳しました。例:顕揚論、佛地論、摂論

2.紀元651年—660年

倶舎論を中心にした相関著作を翻訳しました。例:(発智)、(婆沙)、(六足)等の論。

3.紀元660年—664年

(大般若経)を中心とした翻訳をしました。

彼の翻訳した経典は計75部、1335巻ありました。この総数は羅什、真諦、不空諸大師が翻訳した総卷数より遥かに多いものです。又、玄奘大師が帰国後に書いた(大唐西域記)はインド、ネパール、パキスタン、アフガン、中近東及び中国西北を研究する重要な歴史文献となりました。その内容は7世紀時の前述した138カ国の山川の形や情勢、地理位置、歴史の沿革、気候などに及んでいます。

紀元664年2月5日に玄奘大師は亡くなりました。世寿62でした。彼の生涯の輝ける成就、経典を取りに万里西域へ行ったこと、道に勤勉、学習に厳しい、翻訳の仕事、法相唯識宗を作り、それは日本にまで伝わり日本において最も影響力大きいの仏教宗派の一つとなりました。玄奘大師は中国仏学界の一代高僧と言うだけではなく、世界文化交流史上で唯一の奇人でもありました。

何時の世代の人も彼が西域、中近東及びインドで残した史跡を思い出しますし、彼の人格は皆の模範となる人として長い歴史の中に名を残しました。




前の記事修行の目的
次の記事仁和寺 (にんなじ)