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鈴木大拙

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鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〔ていたろう〕、英字:D.T.Suzuki、1870年11月11日(明治3年10月18日) – 1966年7月12日) は、禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者(文学博士)である。大拙は居士号。石川県金沢市本多町に、旧金沢藩藩医の四男として生まれる。1949年に文化勲章、日本学士院会員。  

著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。梅原猛曰く、「近代日本最大の仏教者」。同郷の西田幾多郎、藤岡作太郎とは石川県立専門学校(後の第四高等学校)以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は加賀の三太郎と称された。

を退学後英語教師をしていたものの、再び学問を志して東京に出た。東京専門学校(現早稲田大学)を経て、帝国大学選科に学び、在学中に鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演に参禅した。この時期、釈宗演の元をしばしば訪れて禅について研究していたベアトリス・レインと出会う。釈宗演より大拙の居士号を受ける(「大巧は拙なるに似たり」)。

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1897年に釈宗演の選を受け、米国に渡り、東洋学者ポール・ケーラスの経営する出版社オープン・コート社で東洋学関係の書籍の出版に当たると共に、英訳『大乗起信論』(1900年)や『大乗仏教概論』(英文)など、禅についての著作を英語で著し、禅文化ならびに仏教文化を海外に広くしらしめた。

1909年に帰国し、円覚寺の正伝庵に住み、学習院に赴任。英語を教えたが、終生交流した教え子に柳宗悦や松方三郎等がいる。1911年にベアトリスと結婚。1921年に大谷大学教授に就任して、京都に転居した。同年、同大学内に東方仏教徒協会を設立し、英文雑誌『イースタン・ブディスト』(Eastern Buddhist )を創刊した(現在も同協会より刊行中)。

晩年は鎌倉に戻り、自らが1941年に創設した東慶寺の松ヶ岡文庫で研究生活を行った。1949年には、ハワイ大学で開催された第2回東西哲学者会議に参加し、中国の胡適と禅研究法に関して討論を行い、同年に日本学士院会員となり、文化勲章を受章した。1950年より1958年の間は、アメリカに住み、ハワイ大学、エール大学、ハーバード大学、プリンストン大学などで仏教思想に関する講義を行なった。鈴木はカール・グスタフ・ユングとも親交があり、ユングの主催したエラノス会議に出席した。またエマヌエル・スヴェーデンボリなどヨーロッパの神秘思想の日本への紹介も行った。

大拙が没した際、ニュースを読み上げた宿直明けのアナウンサーが、原稿に禅と書いてあるのを蝉と読み違えて「蝉の研究で有名な鈴木大拙氏が亡くなりました。著書には英文による『蝉と日本文化』…」と、誤って読み上げてしまい進退伺いを出したが慰留された[1](彼は自著の著者紹介で「”褌”の研究家」と誤植されたこともある)。

墓所は金沢市野田山墓地の鈴木家墓所と鎌倉東慶寺境内にあり、すぐ近くに岩波書店初代店主岩波茂雄の墓と、西田幾多郎の墓があり、毎年命日である7月12日には大拙忌法要が行われる。没後鈴木学術財団が設立される。

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