ホーム ヂィレクトリ 教師 日本仏教史上の巨人『行基』  

日本仏教史上の巨人『行基』  

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01-21.gif先日、書店をぶらついていて、「仏教と資本主義」という、少々違和感のある書名の本に出会いました、その新刊書の帯には“1300年前、行基。資本主義のルーツは日本にもあった”との、少し”?”なコピーがついておりました。小生は前回の寄稿文で、坂東33ケ所めぐりの古寺に行基の足跡が多いことに触れ、行基について少し調べたことを記したところでありましたので、その”?”なコピーに興味をそそられ、その本を買い求めました。

行基にわが国資本主義(精神)のルーツが遡れるという、長部論文については、”資本主義”の定義の曖昧さなど、必ずしも全面的に納得・同感とは参りませんでしたが、著者の心は、今、骨太の社会哲学を失い、個人の生活倫理観も混迷しているわが国の状況を憂え、かってわが国で展開された健康な”仏教精神”運動を顧みるの論を提起されているのだ、と読めば、大いに納得、啓蒙される書であります。以下は、この著書から得た「行基」知識と「仏教と資本主義」(論)の甚だ不完全なご紹介であります。

<「仏教と資本主義」(新潮新書 2004年4月刊)の著者について>

著者・長部日出雄氏は昭和9年青森県生まれ、早稲田文学部中退、週刊誌記者、フリーライターを経て作家となり、第69回直木賞、新田次郎賞、大佛次郎賞、和辻哲郎文化賞などを受賞されていて、幅広い創作活動をされています。マックスウエーバーの研究も深くされ、この著「仏教と資本主義」とも関連深いのですが、「二〇世紀を見抜いた男 マックスウェーバー物語」という著書をこの8月に新潮文庫から出されております。 <浅学の小生は、これまで氏の作品を読んだことがありません>

<行基の伝記>

主題である“行基と資本主義”精神との関わりについては後回しにして、行基伝の部分を出来る限り“原文抜粋“により記します。

わが国の仏教史上、最初にして最大の巨人は、最澄と空海より百年もまえに生まれ、生涯の大半を在野の僧としてすごしたこの人—— 行基であったに相違ありません。それなのに名前があまり知られていないのは、前半生が謎につつまれ、また特定の宗派を開かなかったために、記録がごくわずかしか残されていないからです。(P.46)

行基の師は道昭です、師道昭が遣唐使に随行して入唐したのは、三蔵法師玄奘のインドからの帰国後8年目(653年)、師玄奘から同房に住まわせてもらうほど嘱望され、三蔵法師玄奘から最新の唯識宗を8年間にわたって学び、法師が漢訳した多くの経論を携えて、飛鳥寺に帰ったのが660年、行基が出家して道昭の弟子となったのは、それから22年後のことでした。(P191)

(道昭は)飛鳥寺の禅院で後進の指導にあたりましたが・・・講義と座禅に没頭するばかりでなく、・・三蔵法師に教えられた新しい大乗仏教の利他行=菩薩行を実践するために、弟子とともに巡歴の旅に出て、各地で井戸を掘り、堤防を築き、船の渡し場を設け、橋を作って、献身的に民衆の生活に奉仕します。(P.47)

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行基が生まれた家は、河内国の高志氏、先祖は百済からの渡来人王仁と伝えられ(P188)、15歳で出家した行基は、唯識瑜宗の根本論典で、難解な「成唯識論」と「瑜伽師地論」を道昭に学び、稀代の秀才として注目されながら、3年ほどするとなぜか律令制下の官寺を飛び出して消息を絶ってしまいました。残されたわずかな記録は、行基が18歳から37歳まで「山林に棲息」したと伝えています。(P47) 行基は・・、瑜伽行の十七段階を、すべて自分の身体で実地に経験して、真の解脱に到達しようと、官寺を離れて山中に分け入ったのに違いありません。(P49)

三十代の後半に山林を出て、行基が独自の布教をはじめたのは、新都平城京の建設に諸国から駆り出された多くの役民が、惨憺たる苦労を舐めさせられている真っ最中でした。役に徴発されて最初に卿国を出たときから都までの食料は自弁であり、帰国のさいも同様なので・・・行き倒れになる者が出ます。・・・行基は、山陽道の要地に、行き倒れの役民や運脚夫、浮浪人等を泊めて、粥を食べさせる布施屋を建てます、・・・そして、つぎつぎ建てる布施屋を拠点にして、かれが進めて行ったのは、土地改良の工事でした。(P56)

悪行をなした者は地獄に堕ち、善行を積んだ者は菩薩となる。・・・そう因果の理を説いて、土地の豪族に資本を出させ、布施屋を建てて粥を施し、集まってくる大勢の窮民の力を集め、師の道昭が唐で学んできた灌漑や土木の新技術を用いて、農業用の池や溝を掘り、堤を築き、道を開き、橋を架けると、土地が潤って、豪族には出した元手以上の利益が戻ってきます。 ・・・かれに従う民衆は、菩薩になるための行と信じてよく働くので・・・(工事は)驚くほどの速さで進みます。・・布教が工事となり、工事が布教となる行基の事業・・・(P57)、・・律令制の最高機関である太政官も、行基の力量を無視できなくなり、これまで危険視してきたその民間伝道にたいする禁圧を緩めざるを得なくなりました。(P58)

聖武天皇によって、・・・総国分寺として東大寺を建立し、そこに全宇宙の真理を説く「華厳経」の中心をなす毘廬遮那の大仏を建造するという計画が生まれてきました。

・・・未曾有の難事業である大仏の建立・・実現の可能性と方途を探る朝廷のなかに、行基を勧進僧に起用する。という案が浮上してきます。 ・・・東大寺の造営と大仏の建造に要する莫大な費用を、勧進によって諸方の豪族たちから調達し、また工事に従事ずる何千、何万もの工と役夫を集めて自在に動かせるのは、行基以外にいない。 と判断されたのです。天平十五年(743年)76歳の行基は、大仏造営の勧進役に起用され、その2年後には、聖武天皇によって、わが国で最初の大僧正に任じられました。(P65)

(行基は大仏開眼を見ることなく、その3年前に 82歳でなくなった)

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