お寺のお堂や門が荒廃するのはすぐに分かることでもあり、それを復興することはたやすい。しかし、形のないものはどうか、たとえば、宗教などの信仰や人々の共通に大切にしている思い、心の荒廃はわかりずらくその復興はとてつもなく難しいものであろう。
今日本の国は10年も続けて自殺者が年間3万人を超え、10年間では30万人もの人が亡くなっている。さらには何万人もの社会的な基盤を失ってホームレスになってしまった人々もいる。勝ち組負け組という言葉があり、高級車に乗りブランド物を惜しげもなく身につけている人たちがいる一方で、負け組となって社会の掃き溜めのような扱いをされている人々がいる。
昔だったら、おそらく、そうした人々が何らかの救済、それは地域であり、宗教の力によって救われていたのではないか。イラクで日本人の若者が惨殺されたとき、それは自己責任だと言われた。政府の要人がそういう発言もなした。しかし、それに対する批判は聞かれなかった。
だが、国家とは、本来国民一人一人の生命を守るものであり、それが本義であるべきなのに、そうした本来の立場さえ忘れ去られている。そこには、国家レベルでも個人レベルでも、人に対する思いやりの心を忘れている、ないがしろにしているということを如実に表していると言えよう。
母親が子供に食べ物を与えずに餓死させる、昔だったら鬼女と言われるようなことをしている。まさに今の日本はそんなことが日常茶飯事となり、地獄の様相を呈している。まさに冷たい戦争状態にあるのではないか。経済の停滞ということもあるが、それよりも、心をおろそかにして、経済第一、拝金主義が蔓延している。
明治以後、排仏そして嫌仏主義のもとに仏教の教えが忘れ去られ、大国に並ぶため経済さえ良ければいい、自分さえ良ければいいという精神が、人々の心に他を思いやる気持ちをおろそかにさせてきた。経済の良かった時代にはその歪みが見えにくく問題視されていなかっただけなのかもしれない。
しかしそもそも、今私たちが使う宗教という言葉は、明治以降キリスト教などの教えを意味するRELIGIONを訳したときに用いた言葉で、それ以前に宗教と言えば、深い教えを言葉に表したものを言い、仏教ではそれぞれの宗派の教えを意味していた。しかし明治以降、宗教という言葉は、キリスト教的な神が中心にあり儀式儀礼を伴う教えを意味するようになった。
明治政府は、その中に神道は含まれないという見解を取り、神国日本にとって神道こそが国民の崇敬すべきものであって、仏教、キリスト教などの宗教は、迷信であり、呪的なものであり、それは弱い者、おんな子供など水準以下の者がするものであると国民に教え込んでいった。それは初等教育の道徳の教科書などにより広く流布していった。
こうした近代における歪められた宗教観を私たちは教え込まれ今日に至っているということさえ全く認識していない。そのことがまずもって大きな問題なのである。その終結となるのが先の大戦であり、だからこそ私たちは、戦後宗教に対する関心を端に置いて、経済の復興、国際的な地位の向上だけにばく進することなった。だから今の私たちは、宗教の体系的な見方を全く知らないし、知ろうともしないのだと言えよう。
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