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増上寺

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99.gif浄土宗の七大本山の一つ。三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)が正式の呼称です。開山は酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建されました。その後、文明2年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与するところ著しいものがありました。

江戸時代の初め源誉存応(げんよぞんのう)が徳川家康の帰依(きえ)を受け、大伽藍(がらん)が造営されました。以後徳川家の菩提寺として、また関東十八 檀林(だんりん)の筆頭として興隆しました。さらに、江戸時代総録所として浄土宗の統制機関ともなりました。

戦災によって徳川家の将軍やその一族の霊廟(れいびょう)は焼失し、焼失をのがれた三門(さんもん)・経蔵(きょうぞう)・黒門(くろもん)などを含む境内(けいだい)は、昭和四十九年(1974)完成の大本堂とともに、近代的に整備されました。

安土桃山時代、徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました(天正十八年、1590年)。家康公がときの住職存応(ぞんのう)上人に深く帰依したため、と伝えられています。

慶長三年(1598年)には、現在の芝の地に移転。江戸幕府の成立後には、家康公の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向かって行きました。

三解脱門(さんげだつもん)、経蔵、大殿の建立、三大蔵経の寄進などがあいつぎ、朝廷からは存応上人へ「普光観智国師」号の下賜と常紫衣(じょうしえ)の勅許もありました。

家康公は元和二年(1616年)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿しました。

増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所がもうけられています。

9999history_photo_05.gif墓所には各公の正室と側室の墓ももうけられているが、その中には家茂公正室で悲劇の皇女として知られる静寛院和宮も含まれています。

現存する徳川家墓所は、門が本来家宣公の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門(なかもん)で、内部に各公の石塔と各大名寄進の石灯籠が配置されています。

恵心僧都(えしんそうず)の作とも伝えられるこの阿弥陀如来像を家康公は深く尊崇し、陣中にも奉持して戦の勝利を祈願した。その歿後増上寺に奉納されたましたが、勝運、災難よけの霊験あらたかな仏として、江戸以来広く庶民の尊崇を集めてきています。黒本尊の名は、永い年月の間の灯明の煤(すす)で黒ずんでいることによります。やはり家康公の命名といわれています。


〒105-0011

東京都港区芝公園4-7-35

TEL:03-3432-1431

無休、拝観無料

サイト;http://www.zojoji.or.jp/index.html


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