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鹿苑寺-金閣寺

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3-3.gif鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院。寺名は足利義満の法名に因む。通称金閣寺(きんかくじ)、山号は北山(ほくざん)。寺紋は五七桐[1]。室町時代前期の北山文化を代表する建築で、1994年(平成6年)に古都京都の文化財として世界遺産に登録された。中心となる建築物である舎利殿を「金閣」、寺院全体を「金閣寺」と通称する。

1224年(元仁元年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘(「北山第」)を営んでいた。これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有していた。同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまう。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。

2-6.gif1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれた。邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約された。

1394年(応永元年)、義満は征夷大将軍を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、北山殿にあって政務を行っていた。義満の死後、義持によって北山殿は舎利殿を残して解体されるが、義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院」から鹿苑寺と名付けられた。夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)としている。

応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に主要な建物が再建され、舎利殿も1649年(慶安2年)に大修理された。

明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により、1894年(明治27年)から庭園及び金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。

金閣(舎利殿)は古社寺保存法に基づき1897年(明治30年)12月28日に「特別保護建造物」に指定され、1929年(昭和4年)の国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定された。また1904年(明治37年)から1906年(明治39年)に解体修理が行われた。庭園は史蹟名勝天然紀念物保存法(現在の文化財保護法)により、1925年(大正14年)10月8日に史跡・名勝(後に特別史跡・特別名勝)に指定されている。

1-5.gif1950年(昭和25年)7月2日未明、放火により国宝金閣(舎利殿)と安置されていた仏像等を焼失。文部省文化財保護委員会と京都府教育委員会で協議が行われ、国宝指定の解除と金閣再建の援助が決定された。再建費用として、政府や京都府からの補助金、経済界や全国各地からの寄付金など約3000万円(当時)が集められ[2]、1952年(昭和27年)着工、1955年(昭和30年)竣工。10月10日に落慶法要が営まれ、創建当時の姿に復原された。

1986年(昭和61年)から1987年(昭和62年)に金閣の「昭和大修復」が行われたほか、平成に入り、夕佳亭・方丈の解体修理も行われている。

1994年(平成6年)12月、世界遺産(文化遺産)古都京都の文化財として登録、現在に至っている。

所在地 京都府京都市北区金閣寺町1

山号 北山(ほくざん)

宗派 臨済宗相国寺派

寺格 相国寺境外塔頭

本尊 観音菩薩

創建年 1397年(応永4年)

開基 足利義満、夢窓疎石(開山)

別称 金閣寺

ウィキ から

http://www.i3meguri.com/jpn-w/kyo-14.html

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