自殺するのは、あなたと同じく生きる喜びのない人たちのすることです。しかしほとんどの人はまじめに考えればあなたと同じ気持ちになるのです。
おっしゃるとおり、仏教では人間に生まれたことは大変有り難いことだから喜ばねばならないと説かれています。『雑阿含経』の中には有名な盲亀浮木の譬喩があります。
ある時、釈尊が「たとえば大海の底に1匹の盲亀がいて100年に1度、波の上に浮かび上がるのだ。ところがその海に1本の浮木が流れていて、その木の真ん中に1つの穴がある。100年に1度浮かぶこの亀が、ちょうどこの浮木の穴から頭を出すことが1度でもあるだろうか」と尋ねられた。
阿難という弟子は「そんなことはほとんど考えられません」と答えると、釈尊は「誰でも、そんなことは全くあり得ないと思うだろう。しかし、全くないとは言い切れぬ。人間に生まれるということは、今の例えよりも更にありえぬ難いことなのだ」とおっしゃっていられます。
私たちは日常、有り難いと申しますが、あることがまれだということから出た言葉なのです。
これは科学的に考えてもうなずけます。人間死ねば焼かれて空気になり灰になります。この場合、心というものを一応除外して考えても、人間を作っていた空気は宇宙全体に飛散します。空気には境界はないからです。
また、灰になったものは、そこらあたりの地上に積もって土となりましょう。土には植物が生えることもあろうし、長い間には硬い岩石にもなりましょう。それが雨や風によって運ばれて川や湖や海に洗い流されて沈積するでしょう。そして人間を作っていた空気や灰が再び集合して一個の人間に生まれるまでの困難さ、有り難さを考えても分かるでしょう。
『涅槃経』には「地獄に堕ちるものは十方世界の土のごとく、人間に生まれるものは爪の上の土の如し」とも説かれています。
このように、受け難い人身を受けたということは、人間界に出なければ果たせない重大な問題があるということなのです。人間には大切な聖使命があって、それを達成するために生まれ来たということなのです。
その唯一の聖使命とは、真実の仏法、阿弥陀仏の本願を聞信し、魂の解決をするということなのです。これを仏教では信心決定と申します。
しかもこのようなことは何億年に1度しかめぐって来ない絶好のチャンスなのです。かくて、仏法を聞き絶対の幸福を獲得した時こそ、人間に生まれた本当の有り難さ、尊さが分かるのです。仏法を聞き開かぬ限り人間に生まれた喜びなど絶対に分かるものではありません。
以上のことを釈尊は「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身、今生に向かって度せずんば、さらにいずれの生に向かってかこの身を度せん」とおっしゃっていられますが、よくよくかみしめて味わってください。
shinrankai.or.jp/qa/qa0102.htm から