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「善人」って何か?

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私たちの中に果たして真に「善人」といえる人がいるだろうか。「親鸞展」の展示の前で、どきりとして立ち止まった。読み進んでほっとした。大多数を占める悪人たちに、阿弥陀(あみだ)如来の救いは向けられている。

 今なぜ親鸞か。小説「親鸞」を書いた五木寛之さんの目に、激動の中世と混迷の現代が重なる。私たちは「貧」と「老」を切り捨てる時代に入り、闇の中に滑り込もうとしている。つらく苦しい世に生きる意味を追い求め、誰よりも深く悩み抜いた「悩みの天才」親鸞がよみがえって不思議はない。

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 師と仰ぐ法然と親鸞の念仏は民衆の間に広がった。だが、旧来の仏教の反発は強く、朝廷の弾圧も加わってついに流罪となる。僧の身分を奪われ、藤井善信(ふじいのよしざね)の俗名を強いられた親鸞は、妻の恵信尼(えしんに)とともに雪深い越後に下った。「流人 藤井善信」の標札展示がむごい仕打ちを伝える。

 だが朝廷が与えた藤井は名乗らない。「僧にあらず俗にあらず」。愚禿(ぐとく)と名乗った。禿(かぶろ)とはアウトローのざんばら髪のこと。あえて愚かなはぐれ者宣言をしたのは、猟師や漁民、商人と交わる中で、地をはって民衆を救う道を切り開こうと自らに誓ったからだろう。

 珍しい有髪の「親鸞聖人坐像」に向き合うと、栄達を望まず権力にも付かず、信念を貫いた素顔が迫ってくる。「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」。だからしっかり生きよ、と呼び掛ける声が聞こえてくるようだ。一条の光を求め、人々はその言葉にすがったに違いない。

toonippo.co.jp/tenchijin/ten2010/ten20100611.html から 




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