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中国仏教史 (六)

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元の仏教

 元は、支配地域内の宗教に対して、比較的寛大かつ平等で、反蒙古的でない限り、自由な活動を許していた。元の支配下にある諸民族の懐柔をはかり、元の支配を安定化させる必要があったためである。

 太宗(位:1229~41)以降、歴代の皇帝たちは仏教を尊んだ。特に、世祖(1260~94)以後、元朝の仏教尊崇は強まっている。なお、元代の仏教統括機関としては、仏教及びチベット関係の事項を担当した宣政院や、仏教関係の官府であった功徳使司などがある。

 憲宗(位:1251~59)の時代、ラマ教が伝わると、以降の皇帝たちは皆、熱狂的にラマ教を尊崇し、破格の優遇を与えた。

 元代のラマ僧で最も有名なのが、パスパである。彼は、世祖の信任を得、国師として厚遇され、手厚い支援を受けた。パスパの活躍は、以降の元朝の熱烈なラマ教尊崇の基礎となった。世祖らは狂信的ともいえるほどにラマ教を優遇し、そのために、ラマ教は大いに隆盛を誇った。

 このようにラマ教が尊崇された背景には、元が、漢民族社会になかった仏教を奉ずることで、元政権の独自性を示そうとしたことや、ラマ教の華やかで神秘的な儀礼が、モンゴル人たちに好まれたことなどもある。

 元代には、仏教が繁栄する一方、道教も盛んであった。

 道教の一派である全真教の勢力が伸展すると、それが華北の仏教を圧迫し、道仏の間に確執が生じるようになった。道仏の対立を背景に、世祖によって道教が弾圧されるという事件も起こっている。だが、世祖以降は、道仏の対立は沈静化してゆき、皇帝も道仏二教をともに保護した。

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 ラマ教が隆盛を誇る一方、旧来の仏教も、漢民族社会を中心に信奉されていた。元代に最も盛んであったのは禅宗であったが、元代の仏教は諸宗融合の傾向が強く、兼修兼学も盛んに行われていた。また、江南地方を中心として、白蓮教や白雲宗といった教団が大きな勢力を有していた。これらは、宋代、仏教と民間信仰や迷信とが結びついて起こったものである。邪教としてしばしば弾圧されていたものの、秘密結社の形をとって大きな勢力を有していた。

 元朝のラマ教に対する優遇は常軌を逸したものであったが、そのために、ラマ僧たちは次第に専横にはしるようになった。また、元朝のラマ教狂信のため、巨額の国費がラマ教のために費やされ、財政の窮乏を招いた。そのため、ラマ教や元朝に対する不満が募っていった。

 ラマ教や元朝に対する不満を募らせた人々、特に漢民族の中には、前述の白蓮教団や白雲宗に入る者も多くあらわれるようになった。そうした中で白蓮教徒が大勢力となり、元に対して、紅巾の乱と呼ばれる反乱を起こした。

明の仏教

 洪武帝(位:1368~98)ら、明の皇帝たちは、仏教保護を強調しながらも、反乱の基盤となりやすい存在である仏教教団への取締りを強化していった。明の仏教統制機関には、元の宣政院に倣った善世院などがあり、それは、清代にも引き継がれていった。当然私度僧を取り締まる制度もあったのだが、明代にも売牒が行われ、銀を納めないと出家ができないといった有様となった。また、度牒を買い取り僧となる者のほとんどは、租税や徭役の免除が目当ての者や、逃亡を目当てとする者であり、当然のことながら、仏教界の質は低下していった。

 また、元の末期のように、白蓮教徒たちはしばしば反乱を起こした。このため、寺院建設の禁止や出家者の還俗などの仏教の粛正を求める上奏が相次いだ。仏教教団に関する問題は、行政上の重要問題の一つであったのである。

 元代にラマ教におされていた他の教派も、明代には再び力を伸ばした。明代の仏教を代表するのは、禅宗と浄土教であったが、この時代は諸宗の融合がさらに進んでいた。禅浄一致を主軸とする各宗互融が、明代仏教の大きな特色の一つであった。

 また、ラマ教も、元代ほどの繁栄はないが、それでも尊重され続けており、皇帝の中にも、ラマ教を信奉するものがあった。

 明代には、印刷技術が発展し、四回にわたって大蔵経出版が行われた。その代表的なものは、康煕十五年(1676)に完成した万暦版である。万暦版は、明本とも呼ばれ、翻読に便利な形体であったため、蔵経普及に役立った。

 明代には、儒・仏・道の三教の融合がいっそう進んだが、とりわけ儒仏の融合が著しく進んだ。明代の僧には、儒教、特に陽明学派と交渉をもつものが多かった。また、仏教側からだけでなく、儒教側からも、儒仏融合を支持するものが多くあらわれるようになった。王陽明(1472~1528)も、儒仏融合を支持した儒学者の一人である。陽明学には禅宗の影響もみられるという。明末には、僧も儒学に、儒学者も仏教に通じていなければならない、とまでいわれるようになっていた。

 明清期は仏教の衰退期といわれる。確かに、思想面での発展はほとんど停止しており、隋唐期のように教学仏教を中心として仏教が華やかに展開された時代ではない。だが、明清期には、仏教が、完全に外来宗教ではなく儒教や道教と同様の中国人の宗教として受け入れられ、中国人一般の精神および生活の中に溶け込んでいった。

 庶民の中に受け入れられた仏教は、道教や民間信仰と融合したものであり、彼らの生活と密着したものであった。また、庶民たちの仏教は、彼らに現世での利益をもたらす「有求必応」の仏教であり、庶民の仏教信仰はひたすら現世利益を求めるものであった。

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