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中国仏教史 (七)

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清の仏教

 もともと女真族はシャーマニズムを信仰していたが、清朝はラマ教を信奉し、保護を加えていた。これには政治的意味もあった。当時、モンゴルやチベットで信仰されていたのがラマ教であり、この地の人々を懐柔するために、ラマ教が利用されたのである。

 雍正帝(位:1722~35)など、仏教を尊崇した皇帝もいたが、清朝が信奉していたラマ教以外の仏教は、全体的に、抑圧される傾向にあった。

 清朝は、漢民族の反満思想を抑圧し、清朝による支配を安定させる必要があった。清朝は、そのために、儒教を利用した。儒教、特に朱子学の説く、忠や孝などの封建的秩序を重んじる倫理は、皇帝専制体制を確立する上で都合がよかった。そのため、清朝は儒教によって民衆教化を進めていった。こうして儒教が利用され、儒教による教化政策が進められるようになると、仏教も、儒教とは異なる宗教として攻撃を受けることとなった。

 また、白蓮教社など宗教結社によった反乱は、清朝にとっても脅威であった。そのため、清朝は、儒教による民衆教化を進め、政治権威と封建道徳の浸透をはかるとともに、仏教教団への取締りを強め、仏寺への参詣を制限するなど、民衆と仏教とを切り離し、仏教を社会から隔離する政策をとった。

 また、仏教側も堕落し、僧尼の質の低下が進んでいた。この頃の僧尼の多くは、生活のため、あるいは免税目当て、逃亡目当てに出家した者であり、本当に教えを追究しようとしている者はほとんどいなかった。そのため、仏教界は、社会からの尊敬も失っていった。清朝の仏教抑圧の政策と、そして何より仏教界自体の怠慢・堕落のために、仏教は衰微し、その権威は地に落ちた。

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 こうした中、在家の人々、とりわけ儒者の、仏教研究等の活動が、清代の仏教を維持してゆく上で重要であった。在家者の手による仏教、つまり、居士仏教が、清代仏教の特徴といわれる所以である。

 道光三十年(1851)に起こった太平天国の乱によって、寺院の破壊、経典の焼棄などが行われた。清末の中国仏教界は、精神面での退廃がすすんでいた上、物質的・外的面でも、甚大な被害をうけたのである。

近現代の仏教

 光緒二十四年(1898)、国政革新のためには教育の改革が第一であり、そのために、もはや頽廃の極みにある仏教の寺院の土地建物を転用すべきであるとの進言が、光緒帝に対して出された。教育などのために寺院を転用してゆく運動を、廟産興学といい、清末から中華民国の初め頃まで展開され、中国仏教界を震撼させた。また、廟産興学に乗じて、寺院財産を公然と奪い取ってゆく者もあらわれた。仏教界への迫害があまりに大きくなりすぎたため、寺有財産保護令が出されたが、この法令が徹底されることはなかった。

 中華民国の初期には、政治面でも思想面でも、文化面でも、大改革が進められた。そのため、廟産興学は、いっそう盛んになっている。また、新しい社会には仏教など必要でないとする風潮も顕著になった。五・四運動の頃には、儒・仏・道の三教や民間信仰、迷信の類に対する非難が高まり、迷信打倒運動や反宗教運動が巻き起こった。占いなどの迷信的職業が禁止されるとともに、仏事や民衆の間で催される宗教儀礼も迷信であるとして排され、各地で寺院に対する破壊行動が起こされた。

 こうした中、仏教界の革新をはかろうとする動きもおこってきた。

 民国元年(1912)、敬安(1851~1912)は、江蘇・浙江の僧を中心に新仏教運動を起こして上海に中国仏教総会を組織し、臨時政府に寺院財産の保護を訴えた。その結果、袁世凱によって寺産保護令が公布されたものの、仏教界への攻撃はその後も激化していった。

 この中国仏教総会をはじめとして、中華民国時代の前期には、中国仏教寺院の大連合が形成され、仏教界の改革と仏教復興運動が行われた。こうした仏教寺院の連合は、清末以来の社会の急変に対抗する仏教側の自衛手段であった。

 太虚(1889~1946)は、孫文や章炳麟らの新思想の影響を受け、仏教を革新する必要性を感じていた。彼は、中国仏教の危機を救うためにも、堕落していた仏教界の怠慢・堕落を絶ち、新しい時代に見合う仏教へと仏教改革を進めていかなければならないと主張し、孫文の三民主義に倣って、仏僧(堕落した僧尼を排除し、優秀な僧尼を育成する)・仏化(全国に僧俗の信衆団体を作り、社会を仏教化する)・仏国(国土を仏団浄土とする)の三仏主義を唱えた。さらに、彼は、仏教改革の根本は、僧教育の改善であると考え、優秀な僧侶を育成するための施設を充実させるべきであるとした。

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 こうした彼の構想のもと、武昌仏学院をはじめとする様々な僧教育施設や図書館などが設立された。この武昌仏学院からは、中国の代表的仏教雑誌とされる『海潮音』が出版された。

 太虚らの指導のもと、中国仏教は復興へと向かったが、丁度その頃、日中戦争が勃発し、仏教復興事業も頓挫してしまった。

 民国二十一年(1932)、国民政府に対して提出された報告では、現在中国には禅宗・講宗・律宗・浄土宗・密宗があるとされている。しかし、五宗が厳密に区別されているわけではなく、実際のところは禅浄一致の仏教が主流であった。そして、一般庶民の間で信仰されていた仏教は、前述の通り、道教や民間信仰と融合したものであり、「有求必応」という言葉に示されるように、現世利益を求める仏教であった。

 中華人民共和国では、憲法によって信教の自由が定められ、毛沢東も信教の自由を保障する談話を発している。実際、共産党政権は、日中戦争や国民党との内戦のために破壊された寺院の復興に力を尽くしている。だが、その一方、文化大革命の時期には、宗教全般に対して否定的であり、仏教儀礼を禁じるなど、抑圧を加えてもいる。

 しかし、1980年代には、宗教に対してより穏健な姿勢がとられるようになった。1980年に改正された憲法では、信教の自由がより明確に承認されるようになった。また、文化大革命期に破壊された寺院の修復も進められていった。

http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2001/011221.html から

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