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中国仏教史 (五)

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遼・金の仏教

 遼は、仏教を重んじ、保護する政策をとっていた。

 もともと、契丹人の固有の信仰は、氏族制と結びついたシャーマニズムであったにもかかわらず、あえて仏教を国教としたのである。それには、政治的背景があった。

 契丹が中国的な君主専制体制を確立するためには、従来の氏族制を打破する必要があった。また、遼の領域内には漢民族や渤海人も多く、国家の安定のため、領域内の諸民族、特に契丹人と漢民族との融和をはかる必要があった。遼は、内陸部の経済的・文化的発展のため、内陸部に漢民族を移住させる政策をとったが、このときにも、移住先に仏寺を建設するなどしている。

 こうしたわけで、氏族的で、契丹人のみが信仰していたシャーマニズムではなく、超氏族的・超民族的な性格を有する仏教を国教として採用し、仏教を人心収攬の手段としたのである。

 遼代の寺院の経済力を支えていたのは、二税戸という制度であった。二税戸とは、貴族や寺院に与えられた民戸で、税の半分を国に、半分を自分の属する貴族や寺院に納めたものをいう。二税戸からもたらされる収入を経済基盤として、有力寺院が力を伸ばしていった。

 こうして、国家の保護のもと、仏教は盛んになった。とりわけ11世紀中頃には、国力の充実を背景として特に手厚い保護をうけ、房山石経の刻経事業や契丹大蔵経の出版などが、国家事業として進められた。

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 遼代には仏教教理の研究も盛んに行われた。遼の仏教は華厳宗が中心であったが、密教や律宗も尊ばれた。しかし、これらは純粋なものではなく、融合の傾向が強かった。

 こうした教理研究の中枢にあったのは常に漢民族ではあったものの、仏教は、契丹人にも浸透していった。契丹人の間では密教が流行したが、これは、契丹人の固有の信仰がシャーマニズムであり、呪術的要素を含んだ密教と比較的近かったためである。

 金も、時には仏教抑圧政策をとることもあったが、おおむね仏教に対して好意的であった。

 金朝は、国家財政が窮乏した時、度牒など、僧や寺院に対して発行される許可状の類を公売した。金代にも、私度僧を取り締まる制度や仏教統括のための制度があったものの、度牒等の公売が行われていたため、全く有名無実のものであった。また、当然ながら、度牒の公売は仏教界の質的低下をもたらした。

元の仏教

 元は、支配地域内の宗教に対して、比較的寛大かつ平等で、反蒙古的でない限り、自由な活動を許していた。元の支配下にある諸民族の懐柔をはかり、元の支配を安定化させる必要があったためである。

 太宗(位:1229~41)以降、歴代の皇帝たちは仏教を尊んだ。特に、世祖(1260~94)以後、元朝の仏教尊崇は強まっている。なお、元代の仏教統括機関としては、仏教及びチベット関係の事項を担当した宣政院や、仏教関係の官府であった功徳使司などがある。

 憲宗(位:1251~59)の時代、ラマ教が伝わると、以降の皇帝たちは皆、熱狂的にラマ教を尊崇し、破格の優遇を与えた。

 元代のラマ僧で最も有名なのが、パスパである。彼は、世祖の信任を得、国師として厚遇され、手厚い支援を受けた。パスパの活躍は、以降の元朝の熱烈なラマ教尊崇の基礎となった。世祖らは狂信的ともいえるほどにラマ教を優遇し、そのために、ラマ教は大いに隆盛を誇った。

 このようにラマ教が尊崇された背景には、元が、漢民族社会になかった仏教を奉ずることで、元政権の独自性を示そうとしたことや、ラマ教の華やかで神秘的な儀礼が、モンゴル人たちに好まれたことなどもある。

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 元代には、仏教が繁栄する一方、道教も盛んであった。

 道教の一派である全真教の勢力が伸展すると、それが華北の仏教を圧迫し、道仏の間に確執が生じるようになった。道仏の対立を背景に、世祖によって道教が弾圧されるという事件も起こっている。だが、世祖以降は、道仏の対立は沈静化してゆき、皇帝も道仏二教をともに保護した。

 ラマ教が隆盛を誇る一方、旧来の仏教も、漢民族社会を中心に信奉されていた。元代に最も盛んであったのは禅宗であったが、元代の仏教は諸宗融合の傾向が強く、兼修兼学も盛んに行われていた。また、江南地方を中心として、白蓮教や白雲宗といった教団が大きな勢力を有していた。これらは、宋代、仏教と民間信仰や迷信とが結びついて起こったものである。邪教としてしばしば弾圧されていたものの、秘密結社の形をとって大きな勢力を有していた。

 元朝のラマ教に対する優遇は常軌を逸したものであったが、そのために、ラマ僧たちは次第に専横にはしるようになった。また、元朝のラマ教狂信のため、巨額の国費がラマ教のために費やされ、財政の窮乏を招いた。そのため、ラマ教や元朝に対する不満が募っていった。

 ラマ教や元朝に対する不満を募らせた人々、特に漢民族の中には、前述の白蓮教団や白雲宗に入る者も多くあらわれるようになった。そうした中で白蓮教徒が大勢力となり、元に対して、紅巾の乱と呼ばれる反乱を起こした。

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