唐の仏教
唐王朝は、諸宗教に対して寛大であり、保護を加えたが、道教の開祖・老子と唐王室が同姓であるとして、道教を特別に重んじた。そのため、道教の地位を仏教の上におくとする「道先仏後」の政策をとった。武周朝期には、則天武后(位:690~705)が仏教を重んじたためにこの席次が覆されたものの、基本的に、唐代の仏教政策は「道先仏後」で貫かれ、玄宗(位:712~756)や武宗をはじめ、唐の歴代の皇帝たちは道教を尊んだ。しかし、実際の社会上の勢力は、仏教のほうが上であった。
唐代の仏教は、中国史上、最も隆盛を極めた。
玄奘(602~664)、義浄(635~713)らがインドに渡り、それぞれ唯識学や律などに関する新たな知識を中国に伝えた。また、玄奘は、太宗(位:626~649)の援助のもと、翻訳活動をすすめ、非常に大きな成果をあげている。
東晋頃から呪術的要素の強い雑密が伝えられていたが、それよりも体系化された純密が、不空(705~774)によって伝えられた。また、不空は、翻訳においても功績が大きかった。
こうした新たな仏教からの刺激もあり、唐代、教学仏教は最盛期となった。地論宗や摂論宗の学説を取り入れ『華厳経』に基づいて華厳宗が開かれ、真諦三蔵や玄奘のもたらした唯識学を基として法相宗や倶舎宗が開かれた。
唐の国威高揚を背景に、唐代の中国仏教は東アジア世界に伝播した。渤海、朝鮮、日本、ベトナムを包括する東アジア仏教圏が形成され、『漢訳大蔵経』に基づく中国仏教が、東アジア諸国に伝えられた。
唐代は、律令格式が整備され、それに基づく体制が整えられた時代であった。仏教関係の条目の基本であった道僧格をはじめ、出家者の犯罪等、仏教に関係する事柄についても規定が設けられていた。
道教及び仏教に関する宗教行政は、唐初は政府の鴻臚寺に、玄宗以降は鴻臚寺と尚書省の祠部に所属していた。また、唐の中期頃から、中央には僧録が、地方には僧統・僧正が設けられ、仏寺や僧尼の管理・統括にあたった。
私度を防止するため、出家者の籍を厳重に管理し、試験によって出家者を選考する制度が設けられた。公度の出家者には、祠部から度牒が交付され、身分が保証された。
唐代には、出家者といえども国家の法の支配下に置かれ、俗人の統括を受けるという原則が確立されたのである。
その後、唐代以降も、形式に多少の違いはあっても、こうした仏教統制のための諸制度は続いていった。
唐の中期以降、仏寺で催される年中行事に、一般大衆が参加するようになってゆき、民衆のために、教義を平易に親しみやすく説いた俗講が起こった。仏教が民衆の間に浸透していくにつれて、仏教は娯楽化していった。寺院は民衆にとっての文化の中心地であるとともに、娯楽の場でもあった。特に年中行事が催される時には、多くの人々が集まり、それにともなって市も開かれるようになった。
また、僧尼達は、孤児や病人等弱者に対する福祉活動や、治水、橋梁の架設、無料宿泊施設の設置などの社会事業にも積極的に貢献した。寺院による貧困者救済目的の金融事業もまた、社会事業の一種であったが、三階教の無尽蔵院のように、のちに営利目的化するものもあった。
安史の乱以降、貴族社会の崩壊と庶民社会の台頭が進んだ。仏教も、これまでは長安や洛陽に集中していたが、地方へと分散・浸透していく傾向が強くなっていった。
唐の武宗は、会昌五年(845)、決められた数の寺と僧尼とのみをとどめ、そのほかの諸寺をすべて破壊し、僧尼を全て還俗させた。また、寺院の荘園所有を禁じ、寺院財産を没収した。これが、会昌の廃仏である。
この廃仏の原因の一つに、武宗の道教信奉があげられる。
また、唐代の仏教勢力の拡大とその堕落も、廃仏の原因の一つであった。この時代、寺院は土地寄進による大土地所有を進めており、経済的繁栄を遂げてはいたが、その一方、免税目当ての私度僧や僧尼に与えられる特権を利用して暴利を貪る出家者が増加するなどして、仏教界の腐敗が進んでいた。
この現象は経済的問題にもつながる。僧は農耕等の労働を行わず、免税特権を有するため、免税目当ての私度僧の増加は、労働力不足と税収減の元となった。寺院の大土地所有も、土地集中という問題を引き起こす。また、寺院が広大な土地を所有するようになった背景には、寺院に土地を寄付することで、課税を免れようとする者が多くあらわれたこともある。このこともまた、税収減を引き起こした。
武宗の死後、廃仏の動きはやんだ。しかし、晩唐の仏教にはかつてのような力はなく、唐の国力低下にともなって、徐々に衰微していった。
五代十国の仏教
唐末五代の戦乱のために寺院は荒廃し、経典は散逸して、教学仏教は衰微した。教学仏教に代わって、実践中心の禅宗が地方を中心として栄え、臨済宗、曹洞宗、雲門宗などの禅宗五家が成立した。
華北地域の五代の王朝は不安定で、抗争が続いたため、仏教界に大きな発展はなかった。
しかし、華南地域の十国の政権は比較的安定しており、経済面でも文化面でも発展していた上、皇帝が仏教を保護したため、仏教は盛んであった。とりわけ呉越(907~978)や南唐(937~975)の皇帝たちは仏教を重んじた。
比較的大衆に密着した仏教であった江南仏教や、都市を離れた山岳の仏教は、戦乱や仏教弾圧の被害をうけることが少なかった。都市中心の教学仏教に比べ、そうしたところに基盤を置いていることが多かったことも、禅宗の発展の要因の一つであった。
五代時代にも三武一宗の法難の一つが行われた。後周の世宗の廃仏である。世宗は、顕徳二年(955)、勅額の無い寺院を基本的にすべて廃止し、出家志願者に対しては試験を課した。また、仏像、鐘鐸類を没収し、貨幣鋳造に用いた。
この廃仏の背景には、私度の横行、僧尼の質の低下、風紀の乱れなどの仏教の堕落や、銅の欠乏と国家財政の逼迫などがあった。経済面での問題は、この廃仏の動機の大きな要素であった。没収された寺院の財産が、逼迫した財政の補いとされたのである。
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