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カルマパ17世

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カルマパ17世(1985年6月26日 – 、在位1992年 – )、ウゲン・ティンレー・ドルジェ(チベット文字: ཨོ་རྒྱན་འཕྲིན་ལས་རྡོ་རྗེ།、英語: Ogyen Trinley Dorje)は、チベット仏教カギュ派の最高位の化身ラマであるカルマパの第17世。チベット北部カム出身。チベット族。

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カルマパとしての認定

1981年カルマパ16世の死後、転生者探しがカギュ・カルマ派伝統の4人の高位の化身ラマからなる摂政団(シャマル・リンポチェ、シトゥ・リンポチェ、ジャムゴン・コントゥル、ギャルツァブ・リンポチェ)によって始まった。シトゥ・リンポチェがカルマパ16世の遺書を発見し、それを根拠にして選んだのがウゲン・ティンレー・ドルジェであった。ダライ・ラマ14世はウゲン・ティンレー・ドルジェを正式にカルマパ17世として承認し、中国政府もまたその認定を追認した。チベット亡命政府はダライ・ラマ14世の承認通り、ウゲン・ティンレー・ドルジェをカルマパ17世として紹介している。また、ダライ・ラマ14世は、ウゲン・ティンレー・ドルジェをカルマパ17世とする決定が変更されることは、今後ともありえない、と言明している。なお、ジャムゴン・コントゥルは転生者捜索の旅の途中、交通事故で亡くなっている。

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インド亡命の経緯

2000年にヒマラヤ山脈を越えて、チベット自治区からインドに逃亡し、難民認定を経てそのままインドに亡命した。

もともと、8歳でカルマパ17世と認定されてから、中国政府側の厚遇を受けており、比較的自由を与えられていたとされる。中国政府と中国共産党はカルマパ17世を、亡命中のダライ・ラマ14世に代わる親中国共産党派のチベット仏教指導者に育てあげようと考えていた。
しかし、カルマパ17世は仏教修行のためにインドへの旅行を希望し、それを中国政府に度々打診したが断られ続けた。その後は当局からの監視がいっそう強くなった上に、1998年にはツルプ寺で中国人2人によるカルマパ17世の暗殺未遂事件がおこった。

カルマパ14歳の1999年12月28日の夜、中国政府の番人たちの目をそらせた隙にツルプ寺の寝室から、用意された車に飛び乗った。一般人の姿をして、カルマパの姉を含む侍従5人と2人の運転手と共にネパール国境へと進む。僧院ではカルマパが自室にいるように見せかけるため、僧侶らが毎日部屋に訪れていたという。

中華人民共和国は、カルマパ17世は歴代のカルマパ(カギュー派黒帽活仏)の法器・黒帽を探索しにいく旨を書き記した置手紙を残したと発表し、カルマパ17世がすぐに中国に帰国することを示唆した。しかし、インドに姿を現したカルマパ17世本人はこの話を否定し、自分の行動が中国の束縛を逃れての亡命であることを明言した。

ネパールの首都カトマンドゥを経てインド国内に入る。そこまでの交通手段は徒歩や馬、列車、バス、レンタカーを乗り継いだとされる。ムスタン南部を抜ける際には僧侶がチャターしたヘリコプターを利用し、逃亡中の資金や食料は信者が支援した。8日間に及ぶ逃亡によってカルマパの足は凍傷し、顔の皮膚もひび割れていた。

2000年1月5日早朝にチベット亡命政府のあるダラムサラ近郊のゲストハウスに到着。同日、ダライラマ14世と面会を果たしてその祝福を受けた。

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