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道元禅師の人間像を知るために

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1、映画『ZEN 禅』と寂円禅師

  先日、仙台市長町の映画館で道元禅師様の生涯を描いた映画『ZEN 禅』を見て参りました。一般の方にはセリフがやや難解であったかもしれませんが、道元禅師様の人間像を具現化しようとした努力が感じられ、「道を求め、ひたすらに禅を行じて来られた道元禅師像」が伝わったのではないかと思いました。原作は駒澤大学総長大谷哲夫先生が7年前に書かれた物語『永平の風』です。物語ですから史実を若干脚色しております。ストーリーのカギを握る人物が源公暁(みなもとのくぎょう)と禅僧寂円(じゃくえん)です。

  源公暁は西暦1200年生れで、道元禅師様と同い年です。鎌倉幕府二代将軍源頼家の二男で、早くに父頼家が亡くなり、11歳で出家しました。近江三井寺の公胤僧正の下で仏教を学んでおりましたが、17歳の時に祖母北条政子のはからいで鶴岡八幡宮別当に就任しております。「父頼家が早死にしたのは叔父実朝の陰謀。」と信じて公暁は鶴岡八幡宮に参詣する実朝を暗殺。公暁自身も直後に討ち取られています。
道元禅師は比叡山で仏教の勉強に励まれていたが、疑問点の解決のために三井寺の公胤僧正に教えを請いに参じたと言われています。道元禅師と公暁は三井寺で共に仏教の勉強に励んだ可能性があります。それ故、大谷先生は物語の中で二人を親友として描いています。

 そして、映画の冒頭で、中国で正師を求めて行脚する途中、道元禅師は公暁そっくりの中国人の禅僧に出会います。それが寂円禅師です。

  福井県の山間部に位置する大野市に宝慶寺(ほうきょうじ)という曹洞宗の古刹があります。その宝慶寺の開山が寂円禅師です。若き道元禅師様は中国に渡り、正師を求め多くの禅寺をたずねました。そして、この方こそ自分が師匠とすべき方だという方に出会います。それが太白山天童寺住職の如浄禅師です。若き寂円禅師は道元禅師と共に如浄禅師の下で修業を続けられました。その後如浄禅師が亡くなられ、1228年道元禅師を慕って日本に来られ弟子となり、道元禅師の下で修行を続けられました。道元禅師ご遷化の後、弘長元年(1261)永平寺と同じ越前の国大野庄銀杏峰の麓に入り、石上に坐禅すること18年。たまたまこの山奥に遊猟した下野守伊自良氏が坐禅される寂円禅師のお姿をみて、帰依尊信の念を起こし、本堂一宇を建立し宝慶寺と名付け、寂円禅師を開山に迎えました。

 寂円禅師のお名前を知る人は曹洞宗関係者と地元大野市の方ぐらいだと思います。しかし、道元禅師を語り曹洞宗の歴史を語る上で、とても重要な方なのです。

2、寂円禅師を通じてみる道元禅師様

「弟子を見て、師匠を見よ」という言葉があります。

 お釈迦様の十大弟子の一人に舎利弗尊者(シャーリプトラ)という方がおられます。この方は初めからお釈迦様のお弟子ではありません。お釈迦様最初の弟子であったアッサジ比丘に出会い、アッサジ比丘から短い縁起の偈文を聞いて即座に仏教の奥義を悟り、そして親友の目連尊者を誘い、2人でお釈迦様に弟子入りしました。舎利弗尊者はアッサジ比丘の立ち居振舞いや言葉を通してお釈迦様の偉大さを感じ取り弟子入りしました。

 
道元禅師の居らした時代のの中国は文化的に日本よりも遥かに先進国だったと思います。寂円禅師は何故わざわざ中国から日本に来て道元禅師の弟子となったのでしょうか?道元禅師が優れた禅僧であったことがまず考えられますが、それと同時に道元禅師が人間的に魅力のある御方だったからだと思います。
尚、寂円禅師の他にも道元禅師を慕って外国から来た禅僧が居られます。高麗(今の朝鮮半島)出身の了然法明禅師も海を渡って日本に来て道元禅師の弟子となり、後に出羽国(現在の山形県鶴岡市羽黒町)に玉川寺を開いています。

  道元禅師は『正法眼蔵』等難しい著作を残され、厳格な修行を指導して来られたので、「冷たい秀才」というイメージを持たれる方もいるそうです。
優れた哲学者であり、詩人であり、修行の人であったことは間違いありません。しかし、決して「冷たい秀才」ではなかったと思います。冷たい秀才にわざわざ海を越えて弟子入り志願者がやってくる訳がありません。外国の禅僧からも慕われる人徳のある御方だったのです。
私たちは、寂円禅師や了然法明禅師を通して道元禅師のお人柄を偲び、御遺徳を慕い、その教えを受け継ぐよう努めて参りたいと思います。 

ゲストさん より

http://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/28582473.html

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