ホーム 仏教のスペース Ecologie 人間の倫理で自然を守れるか

人間の倫理で自然を守れるか

67
0

環境問題の悪化に伴い、従来の諸学問が大きく変容を遂げようとしている。緑化されたマルクスとして「エコ・マルキシズム」が現れて、「赤い」マルクス原理主義と対峙している。経済学においては労働価値説に対して自然価値説が現れ、法律においてさえ人間以外の存在へと権利が拡張される根拠が提出されている。

 特に、倫理においては、自然を守るための環境倫理が著しく発達し、従来の人間同士で通じていた倫理の限界があらわにされてきた。その結果、従来からあった人間同士の倫理は時代遅れの役立たずになったように思われがちとなった。そうした風潮に対し、伝統的に存在した人間同士の倫理でも十分に自然保護の根拠になり得ると主張したのが、オーストラリアの哲学者ジョン・パスモアである。パスモアは、どのような根拠で人間のみに通じた倫理を自然保護にまで拡張できると考えたのだろうか。

 パスモアは、自然に権利を拡張するのはお門違いで、それよりも未来世代に環境破壊の負荷を残すべきではないという立場である。従って、生態系や自然の保護というよりも、環境問題や資源問題への対処が課題として提示される。それでは従来から行われてきたテクノセントリズム(技術中心主義)と変わらないように見えるが、多くのテクノセントリストが特別な哲学や理論を持たず従来の常識の延長上で資源の保全を唱えているのに対して、パスモアは人間中心の保全論をヨーロッパの伝統や汚染の問題、人口問題、伝統の再考といった各視点から検討し、大きく解釈し直しているのである。

8-4.gif
 パスモアは西欧文明による環境破壊抑止の可能性を、独自の歴史分析によって展開する。パスモアも反省から論を始めている。つまり、環境問題の原因を西欧文明に求めているのである。ところが、だから西欧がダメだという結論には導いていない。歴史分析の結論としての神秘主義、原始信奉主義、権力主義は極端な形態とみなしている。またパスモアは、環境保全のために新しい倫理が必要であるという意見についても疑問を呈している。例えば、新しい倫理・哲学・思想・宗教などを模索する動きの中には東洋思想にその可能性を見いだそうとするものもある。しかし、キリスト教の問題を指摘したリン・ホワイトも、アジアの歴史によって条件付けられている思想を西欧が単純に受け継ぐことは不可能だと見ているのであり、東洋宗教に自然に対する積極的配慮は見られないとして、仏教やヒンズー教の名を挙げている。ここらへんから、生態系保存論、動物解放論、ディープエコロジーあたりへの懐疑論がうかがえる。

 では、西欧伝統のキリスト教はどうとらえるべきか。キリスト教とユダヤ教の「創世記」がいかに大きな問題かは、地上の支配権の問題だけではなく地上に降りたアダムの生活にも表れているのだと、パスモアは手厳しい。アダムはエデンの園では菜食主義であったが、呪われた地に追放されてからは動物を殺して食べるようになった。つまり堕罪以前は動植物の支配者だった人間が、堕罪以降は暴君になったのだと指摘する。しかし、その反面で旧約聖書では、地のすべての獣や空の鳥や地をはうすべてのものに青草が与えられ、ノアの洪水後にすべての種類の生物が地に群がり地上に増え広がるように教え、人間が羊と家畜の世話をすべきであるとした。従って、旧約聖書の限りでは動物の運命を完全に人間に委ねたわけではないことが明らかだと指摘する。

パスモアは人間による自然支配と自然破壊の源流は、キリスト教よりも前のギリシャ人の思想にあると考えた。すべてのギリシャ人思想家が、動物が人間のために存在すると考えていたわけではないが、代表的な思想家であるアリストテレスやストア派はそう考えていた。すべての生物は、ただ人間のためにのみ存在するとされたのである。聖パウロが示した動物に対する神の配慮さえも、人間に対する神の比喩的教訓と解釈されてしまったのは、旧約聖書以上にストア派の思考的影響だとパスモアは述べている。従って、キリスト教の問題は、ヘブライ=キリスト教ではなくギリシャ=キリスト教のごう慢さであるとされる。つまり、ヨーロッパ思想の大きな流れの中に、自然との敵対が存在していたとみなしているわけで、近代的思想家フランシス・ベーコンとルネ・デカルトについてもパスモアはギリシャ思想の影響という形で言及している。ベーコンは、聖書で述べられた自然の支配権を科学の力で取り戻そうとした。聖書が認めた「人間による自然の支配権」は、ベーコンの時代には常識に近かった。デカルトもベーコンと同じような結論を出したが、デカルトはむしろギリシャ=キリスト教的伝統から自然の支配権思想を受け継いでいた。そして、動物機械論をとることにより「ベーコン哲学よりも、むしろデカルト哲学のほうが産業革命に特許をあたえるものとなるのである」。

 この、ベーコンとデカルトの技術中心主義的楽観論を強力に受け継いだのがカール・マルクスである。パスモアは、マルクスの自然観の基本は自然支配であったと考えている。ベーコンやデカルトの見解を、マルクスほど強力に表現したものはほかにない。なぜなら、マルクスは、資本が及ぼした偉大な文明開化の影響を、自然の神格化の排除に求めたのである。それによって自然は人類のための単なる対象物になるとされ、これがマルクス主義の典型的立場となったのである。これに対してエンゲルスは、『自然の弁証法』の中で、自然の報復を強調しているが、パスモアによれば、これさえも人間の自然支配を否定するものではないという。

9-8.gif
 こうしたヨーロッパ伝統の自然克服を認めながら、パスモアは近代において人間が自然の専制君主であることを否定する動きは四つの異なった方向からあったとして、近代思想に新しい可能性を見いだそうとしている。それが、(1)神秘主義、(2)ダーウィン主義、(3)スチュワード(農園管理者)精神、(4)自然を完成させるためにこれに協力する者として人間を見る伝統の四つである。神秘主義とダーウィン主義は人間の生命と自然の生命との統一的な環のつながりという点で思考が一致し、二元論を排していったという。スチュワード精神こそは、聖書が人間に与えた自然保全の思想であるとパスモアは考え、人間が自然に協力して完成させるという伝統とも結びついている。「自然」という言葉は、「生まれる」とか「生じる」とかいった意味のラテン語から派生しているというが、人間と自然の関係をこうした自然の意味から解釈すれば、土地の開発とは「潜在的可能性を現実化すること、それ自体の当為を明るみに出すことになる。つまりこれを完成することになる」。つまりほったらかしではダメで、人間が手を加えて初めて光るものだというわけである。

 パスモアはこれをヨーロッパにおける自然保全思想の源流の一つとしている。例えばドイツ観念論においては、人の手が加えられた自然は順応し、「人間は暴君としてではなく、生来の主人として自然を支配することができる」とみなしている。自然は、人間精神によって「太古のカオスから引きあげられる」のである。すべてのエコロジストからは受け入れられないかもしれないが、これも一つの自然との協調であろう。なぜなら、これらのことは自然の人間化や精神化を意味することで、自然の破壊的利用とは区別されることだからである。人間による自然の完成、既存道徳倫理の強化といった思想を展開するパスモアは、あえて保存(自然保護)ではなく保全をいう。保全は節約を意味する。空気を清浄化するということは、我々世代にも未来世代にもともに有益であるが、資源節約は未来世代のために現代の世代が犠牲になるものである。

 さらにパスモアは、隣人に対して害なすことを悪とする基本的合意があるから現在の環境問題は、それで十分対応可能だとしている。自然美については、詩人たちがさまざまな形で強調しており、西欧の伝統の中には自然破壊への抵抗がある。だから道徳的理由に基づく汚染反対運動に着手する基盤は既にあるのだ。パスモアによれば、必要なのは新しい倫理ではなく、「現存する道徳原理の強化なのである」。それがもたらすものこそ、隣人・愛すべき者・未来世代にしてやれること、自然環境を守ることである。

 とはいえ、遠い未来世代の人たちが、どのような生活スタイルと価値観かを持つかは不明であるから、「われわれの責務は直接的な子孫に向けられるべきでものであり、われわれとしては少しでもましな条件下でその直接の後継者たちにこの世界を譲り渡すことができるようにこの世界の改良につとめるべき」となる。
0-2.gif

未来世代のためだけではない。我々の世代もこの世界をいっそう優れたものしなければならず、自由や愛を放棄してはならない。犠牲にするのは、ある種の財や楽しみに限られる。そして、従来の倫理で言えば、アルベルト・シュヴァイツァーが強調した、すべての生命は尊重されるという「生への畏敬」と「不必要に破壊するのは間違いだと断じる伝統」を結びつけて、これも自然を守る原理になり得るとみなしている。

 パスモアの結論は、新しい道徳は不要であるということである。倫理・道徳はモンテニュー以来変化しており、その伝統の中で十分対応は可能だというのだ。西欧が必要としているのは、人間以外の生物の固有の価値や権利を認めるという新しい倫理ではなく、慣れ親しんできた倫理を一層全般的に守りぬくことになる。今日、廃棄物の海中・空中処理、生態系の破壊、大家族の出生、資源の枯渇が、現在と未来にわたる我々の同胞人の害になっているからだ。そして、環境思想家ごとに異なる環境問題の根本原因は「貪欲と近視眼」だとされる。

 パスモアの思想は現代環境思想の分類に入れること自体異論があるかもしれない。新しい思想を形成するのではなく、伝統的な道徳や倫理での環境問題への対応の根拠として十分であることを説明しているだけだからである。しかし、新しい道徳(思想)は不要としながらも、新しい行動様式は必要なものとみなして伝統的道徳と思想がどう適応するかを解き明かしているのだから、一つの環境思想と言ってもよいのではなかろうか。それは、人間中心主義を維持しながらも、その枠組みを超えて大きく解釈を変えた西欧の伝統的思想なのだ。

* 文中の引用文はすべて、ジョン・パスモア,間瀬啓允訳『自然に対する人間の責任』岩波書店、1998年(John Passmore,Man’s Resposibility for Nature,London,Scribner’s,1974)によるものです。

itpro.nikkeibp.co.jp から




前の記事スリランカの仏教
次の記事密教の世界