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中道 中庸

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仏道では、執着を厭います。まして「ない」ものに執着するなんて、言語道断です。実際には「ない」のに、「ある」と思い込んで、心を偏らせてしまっては、まっとうな道を歩めなくなる。

この”何かが「ある」のだと平気で思い込む”という問題は、イスラム教の規範とも合わせて参照すると、たいへん面白くも情けない西欧世界(キリスト教文化圏)の戯画を立ち上げることができるっぽいので、後日楽しくご紹介&活用したいと思います。

で、仏道では執着を厭うて、心を偏らせない生き方を目指すわけなんだけれども、その偏らない生き方は「中道 ちゅうどう」、偏らない有り様は「中庸 ちゅうよう」と呼ばれます。(ちがったらごめんね)

■マルコムD.エッケル「智慧と慈悲 生命倫理の基本的課題に関するキリスト教と仏教の洞察」p26

中道とは、ものごとの本質について二つの極端な見方をすることを離れる道です。

さまざまな物が、絶対永遠の同一性を有すると考えるべからず

┗欲望、憎悪、苦しみを引き起こす

さまざまな物が、まったく同一性を有さないと考えるべからず

┗ニヒリズム、虚無主義に陥る

真俗二諦、二つのものの見方から同時に世界を知るべし

相対的な真実の立場:あらゆるものは空

世俗的な真実の立場:さまざまな物はすべて存在しかけがえなく大切である

この智慧の理解を、中絶論争や幹細胞の倫理問題に導入できないか

相対的な真実の立場:生命は一連の生物学的プロセスの変遷にすぎない

世俗的な真実の立場:生命は深遠にして道徳的な重要性を有する

智慧は、これらの両方の見方を尊重するのだ

つまり、「科学的」という偏向に過ぎることもなく、「庶民の生活世界的」な不合理に迎合しすぎることもなく、どこかにかっちり線を引くこともなく、常に、常に、中庸を目指して、対応し続ける。

999995555.gifなにより、「庶民の生活世界的な価値観」は、進化心理学的に見ても文化と心理の関係から見ても、ヒトと環境の相互作用の中で、なんらかの確実なメリットを持ち得ているからこそ成り立っている。そのメリットをしかと把握せぬままに、医療側、施策側、科学側の都合が逆撫でに来るからややこしくなる。人の道たる中道をはずしているから、問題が発生する。

では、仏道の「中道 ちゅうどう」をもってして行う生命倫理の実践とは、実際にはどのようなものになるのか。

ここで、仏教王国のタイに登場願いましょう。

■ピニット・ラタナクル「タイにおける生命倫理 仏教の見地から」 大意:

タイ国民の98%は仏教徒であり、タイにおける生命倫理問題の議論では、仏教の教えを念頭に置かざるをえないのです。

タイにおける倫理規範は、仏教道徳の基本三原則に基づくものです。

生命の尊重、慈悲の心、相互依存の心

仏教的見地からすると、自殺の幇助や慈悲殺人・安楽死は、命の尊さを冒すことであり、ありえません。

患者の苦しみは、過去の悪い業(カルマ)の所為なのであり、業の発露を無理に妨げることは、その人の未来に苦しみを先送りするだけなのです。

患者さんが植物状態になった場合は、本人は自発的に業を解消し生を向上させることができないわけで、理屈の上では「命を終わらせてあげる」という取りなし方が奨励される傾向にあります。とはいえ、実際にはどちらかというと、ご家族は「患者の心の中で起こっていることが、はっきりとはわからない」ゆえに、命を維持する方を選びがちではあります。

苦難も、幸福も、単独で発生するものではなく、何かの縁のような関係性・つながりの中で、確実に因果関係を持って発生してくるものである。この点は、 素朴概念的には否定できても、科学や仏道の観点からすれば、絶対否定しようのない現実だ。

その否定しようがない「関係性の中に立ち現れる現実」と、社会性動物であるヒト心理が備え持つ性質を鑑みて、「中道 ちゅうどう」を模索すると、そこにはかなり「仏道」に近いものが構想しえるのだ。

で、その『「仏道」に近いものが構想しえるのだ』という話をわかってもらうためには、『でも日本の仏道は自分が言う仏道とはちゃいますから、そこ間違わんといてぇな』ということを言っておきたく、昨日

●● 『ブータン仏教から見た日本仏教は神道だ』

という話を置いたんだよ。

◆仏教と生命倫理の架け橋

機会があったら、この『仏教と生命倫理の架け橋』という本はチェックしておいてみて欲しいな。この本、内容の良さのわりには、かなり不遇を囲っているというか、どうもレア本らしくてね、国内の大学の蔵書を検索しても、収蔵しているところがほかの生命倫理本に比べてめちゃ少ないねん。自分はたまたま北星大学まで出向いて借りることができたけど。

しかし、タイかっこいーよ、タイ。

とにかく、自分的には、西欧での倫理論争よりはるかに、仏道の倫理観は心理学面含め科学的かつ論理的でしっくりくるし、このしっくりくる論争が、カミ教国である日本ではほとんどなされていないという情けなさにげっそりくる。

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