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修道人と文化民族人が持つべき精神生活

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水はどこでも入るべきであり、また必要なものである。飮んだり、淸潔に垢を洗い落としたりするなど、水は一刻もなくてはならないものである。

我々の日常生活の中において、精神的によりよくなり、餘裕のある生活を營むためには、佛敎の眞理が難しくて遼遠であっても、根氣强く修行しつつ生活佛敎を實踐するべきである。佛敎の眞理は水のようであって、我々の生活の中では無くそうとしても無くすことができない、密接で重要なものである。そしたら、どんな精神態度を持って生きていくべきであろうか。

一番目は、謙遜で穩やかで遠慮することである。

つまり、物質的には自分が少しでも損し遠慮したほうが、物事がうまくいく。だからといって、あまりにも穩やかで善良であってはよくない。穩やかで善良な心の中に、鋼鐵のような意志があって、外からは柔らかくても、人が制御しようとすると曲がらない强い意志があってこそ、道を得ることができ、世のすべてのことを成就することができる。物質に關わっては慾心を捨て、物質に超越した佛陀の精神を持って、遠慮することができる時に、文化民族の矜持が芽生えて來るのである。

二番目は、すべての物事に順應し、用事が終わった後には、その心が氣樂であるべきだ。

この心は千回、萬回の變境にぶつかっても、元來變化がないものである。この心性は死ぬこともないし、生まれることもないものだ。だから、この心性をよく知って證得すれば、森羅萬象のすべてに自由自在になれるようになる。又、用事が終わった後には、氣樂で後悔することがないべきだということは、我々の良心が卽ち、眞の佛であるからだ。正しい良心が善知識であるので、すべてのことはこの善知識に聞いて、心を正しく持っていれば、自ずから生活に平靜を得ることができる。

眞理的に生きていく人はいい人生を送る。ところが、非眞理的に生きていく人は取りあえずは便利かも知れないが、自分の良心に背いたので、常に陰うつな生活をし結局は不幸になる。人は世の中に生まれる時、何も持って來たものなく、手ぶら、から身で、服さえ着ていなかったのに、智慧のある人はいい人生を送り、智慧のない人はそうではない。それは、つまり、智慧が眞理であり、人生の生命であるからである。

ここでいう智慧とは、非眞理によっても世の中を生きていける狡猾な智慧ではなく、因習にかぶれる以前の純粹で本來の無垢である自我發見の智慧をさす。ということで、このような幸福な生き方は他のこととは變えることのできない寶物であり、素晴らしく美しい生活であるものだ。

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三番目は、惡い言葉は口に出せなくてやさしい言葉を使い、もうろくしている考えをしないことである。

口は最も多い罪を犯すところである。絹を編むように噓をつき、同じ口であちこち移りながら仲違いをさせ、凶惡な惡口や惡い言葉で人を中傷するなどは、全部不和や是非の原因になる。だから、生活の中でもっとも大きな比重を占めている言語から、まず惡いところを直せ、純化していかなければならない。又、公衆道德を守り、お互いには尊敬と信賴を養うべきである。

氾濫している不信の風潮を少しでも無くすためには、その民族の體臭や歷史、生活樣式の側面を一番よく現し、また水準の尺度になる言語に關心と注意を拂わなければならない。常軌を逸している考えが起きれば、直ちに切ってしまうことが最上の策だ。すべてのことが順調に運ぶことも自分が用心することにあり、順調にいかないことも自分に責任がある。よくない考えが浮かび上がって、それの言いなりのままに從えば、これは出發點から逸れてしまったので、骨折り損をしただけで、結局はその妄想が自分を害するのである。

昔、勉强だけをしていた修學の士が、ある日生まれてはじめて、たんぼに行ってみた。すると、田のあぜに穴が開いて水が漏れていたので,土を持って、內側から塞ぐべきのものを外側から防いでいた。いくら防いでも依然として水は漏れるばかりだから、彼は家に歸って作男にこう言った。




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