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宗教結社

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宗教結社のいくつかは、大きな農民・民衆反乱の中心となったことで知られているが、宗教結社自体が反体制的であったというわけではなく、当時の社会、とくに農民・民衆の動きが反映されたものと考えられる。

黄巾の乱、紅巾の乱、太平天国の乱という歴史上有名な反乱の中心となったのは、それぞれ太平道、白蓮教、拝上帝会という宗教的秘密結社であった。太平道は五斗米道とともに道教の基礎を作ったといわれ、白蓮教は仏教系、拝上帝会はキリスト教に影響をうけた団体であった。

太平道

社会が乱れ、天災や疫病が人々を襲っていた後漢末(2世紀ごろ)、河北地方の干吉によって創設された。黄老道ともいう。

干吉の弟子の張角(?~184)が唱えた「病気は懺悔と呪術によって治療できる」という教えは、多くの農民の心をつかみ、黄河下流域に大規模な信徒の組織が形成されていった。

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184年、張角と信徒の農民およそ30万人は、支配者に対する不満から反乱を起こした。彼らは目印として黄色(「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」)の頭巾を着用したことから、「黄巾賊」と呼ばれた。同年、張角が病没し、反乱軍も鎮圧されたものの、残党はその後も20年余にわたって武装蜂起をくりかえし、また、鎮圧にあたった豪族たちも鎮圧後各地に割拠したため、漢王朝の統制は地方に及ばなくなり、やがて衰退の一途をたどった。

白蓮教

南宋時代(1127~1279)に茅子元(ぼうしげん)が始めた白蓮教は、南宋から清朝末期まで民衆の間に広く浸透し政治的にも影響を与え続けた仏教系宗教結社であった。

東晋の慧遠(えおん、334~416)が始めた白蓮社念仏をもとにして生み出されたもので、教義として、五戒の厳守や不殺生戒による徹底した酒肉の禁止などを求めたため、長い間異端の説として禁じられていたが、元代末期からは、弥勒菩薩がこの世に再誕して人々を救済するという「弥勒下生」の信仰と結びつき、民衆の間に急速に広まった。

白蓮教が初めて歴史の表舞台に登場したのは「紅巾の乱(1351~66)」であった。これは、元朝のモンゴル人優遇政策に対する反発から、白蓮教が中心となって起こした反乱であったが、その後、朱元璋(後の明の洪武帝)らが相次いで参加したことにより、最終的には元を滅亡に至らしめた。

その後、明、清においても禁止された白蓮教は、紅陽教、八卦教といった別の名前で活動を続け、体制側と衝突を繰り返したが、ついに清朝において「白蓮教徒の乱(1796~1805)」となって爆発した。反乱自体は鎮圧されたものの、鎮圧に要した膨大な出費は、清朝の国力をいちじるしく削ぐこととなった。

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拝上帝会

洪秀全(1814~1864)率いるキリスト教系の拝上帝会が起こした「太平天国の乱(1851~64)」は、中国近代史上最大の民衆反乱といわれている。拝上帝会も、差別や対立のない世界を理想として厳格な禁欲的戒律を説いたため、他の秘密結社同様、地主や官憲とは対立する傾向にあった。

拝上帝会が清政府軍との大規模な戦闘に突入したのは1850年末であった。翌年、洪秀全は太平天国の樹立を宣言し、自ら天王と称した。その後太平天国軍は、各地の秘密結社、貧農、失業者らをとり込みながら進撃を続け、1853年にはついに南京を占領、同地を首都とした。しかし南京占領後の洪秀全は、一転して奢侈な生活におぼれるようになったため、人心は離れ太平天国の内部崩壊を早めた。1864年に洪秀全が病死した20日後、南京は陥落し太平天国は滅亡した。

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