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坐禅のはなし

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坐禅(ざぜん)のはじめと終わりは合掌(がっしょう)です。

合掌は、インドに古くからあった風習で、仏教にとり入れられたといわれます。インドでは、右手を「浄の手」、左手を「不浄の手」と考えます。つまり、両の手のひらを合わせる合掌の形は、清浄(しょうじょう)な仏の世界と、私たちの迷いの世界がひとつになるという、仏教の理想の姿なのです。私たちの心も、きれいな部分と、きたない部分があります。それをしっかり自覚することが大切です。

坐禅会(ざぜんかい)などでは、「般若心経(はんにゃしんぎょう)」や「白隠禅師坐禅和讃(はくいんぜんじ・ざぜんわさん)」、「四弘請願文(しぐせいがんもん)」というお経がよく読まれています。とくに、「坐禅和讃」は江戸時代の禅僧、白隠慧鶴(はくいんえかく)が一般の人々に、坐禅の本質を分かりやすく説いたお経として知られています。

zuochan.gif余裕のある方は、ご自宅で坐禅をする前に、お経をあげてみてください。「般若心経」だけで十分です。はじめのうちは、木魚(もくぎょ)を鳴らさないで、棒読みするとよいでしょう。

経本は両手で持ち、目の高さまで持ち上げます。親指を内側にし、残り4本の指で外側を持ちます。ページをめくるときは、親指を使います。

以上、坐禅(ざぜん)について説明してきました。坐禅とは、いそがしい日常を少しだけ離れて、冷静に自分を見つめるものでした。そして、非日常で考えたことを、日常の生活の中に活かしていくことが、坐禅の目的でした。足が痛いのを我慢(がまん)することが修行なのではありません。それでは、ただ苦しいだけで何の役にも立ちません。坐禅の形式にとらわれないで、「坐禅の心」を意識して実践(じっせん)してみてください。

禅宗は無門(むもん)、つまり「門がない」といわれています。「禅」を学ぶことや、坐禅をすることには、資格も知識も必要ありません。誰でも、自由に、禅門の出入りができるのです。この「坐禅のはなし」が、みなさんにとって、禅への門になることを願ってやみません。

http://www.tees.ne.jp/~houjuzan/zazen13.html から




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