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一土一仏

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仏教では、よく三千大千世界という言葉が使われています。三千大千世界とは、どのような世界であるかといえば、平川彰氏はその著「インド仏教史―上巻」(二三〇頁)に、次のように説明しています。

 この四大州と日月、須弥山、六欲天、梵天とを合したものを、一つの世界となす。かかる世界が無数にある。それらの世界が千集まったものを小千世界という。そしてこの小千世界が千集まて中千世界となる。この中千世界が千集まって、三千大千世界となるのである。

 ここにいう最初の単位の「一つの世界」を通常「器世界」というのですが、三千大千世界には、太陽も十億、月も十億、娑婆も十億、須弥山も十億あるというわけです。

 更に、平川氏は右の文章に続いて、仏と三千大千世界との関係について、次のように述べています。

 この三千大千世界が一人の仏陀の教化しうる範囲であるとなす。従ってこの範囲の中に二人の仏陀が同時に現れることはないという。一世界一仏であるが、しかしその仏陀の寿命には限りがあり、説きのこした正法の行われる期間にも限りがある。そのため釈迦仏の前に過去仏が何人かこの世に現れ、さらに未来には弥勒仏が現れると考えたのである。

 なお三千大千世界は一つだけではない。他の三千大千世界がいくつかありうる。従ってそこには別の仏陀が出世していることが考えられる。有部はそのような仏陀の同時出世を否定するが、大衆部系では十方世界多仏出世を認めていた。

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 平川氏のこの説が、仏教の基本的思考であるとするならば、まさしく重要な着眼点といわなければなりません。ここには三千大千世界を一土とする一土一仏の思想があります。この思想を基本として、過去仏・未来仏が考え出され、更に現在仏として十方分身の諸仏とその浄土が考え出されて来ていると申されましょう。

 過去仏については、私としては、それは考え出されたものでなく、既にお釈迦さまの出現される以前からインド古代種族(非アーリヤン人)の間に、古く信仰されていたものであって、実はお釈迦さまみずから過去仏の系譜に入り、過去仏の化導・救済を継承されたものと信じているものです。

 従って考え出された仏とは、未来仏としての弥勒仏、現在仏としての阿弥陀仏、薬師仏、阿(アシュク)仏等々といった十方の諸仏であると申されましょう。

 弥勒仏の成立は、過去仏信仰の仏教的復活に続くものとして、既に大乗仏教以前の部派仏教時代、西北インド地方においてイラン・ペルシャ等の西方諸国における太陽信仰との交流の中に形成されたものと想像されますが、阿弥陀仏の成立も西方の太陽信仰と無関係ではないようです。

 それにしても阿弥陀仏の安養浄土が、西方十萬億土の彼方にあるとされていることは、三千大千世界を一土として計算する時、十万億の三千大千世界の彼方に弥陀の本土があるということになり、この無限にも近い距離からしても往生成仏の至難さが痛感されましょう。そこでその至難さを克服するために来迎弥陀という思想が起こり、山越えの阿弥陀仏図が歓迎されるに至ったのでしょうか。

 法華経の如来寿量品においても、生身のお釈迦さまの久遠実成を表現するのに「五百塵点劫」という譬えが用いられていますが、三千大千世界を以て一土一国とするという単位を基準にすれば、それは想像することも出来ない無限大の数となりましょう。寿量品には次のように示されています。

 我れ実に成仏してよりこのかた無量無辺百千万億那由佗劫なり。たとえば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、たとえ人あって抹して微塵となして、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国をすぎて、すなわち一塵を下し、かくの如く東に行いて、この微塵を尽さんが如し。

 今ここにいう「東方五百千万億那由佗阿僧祇の国をすぎて」という、その国とは地球上の一角の国でなく、三千大千世界を以て一国一土とする国のことなのです。十億の太陽のある大宇宙、それを一国としているのです。

 また寿量品においては久遠の本仏お釈迦さまの教化される地域を次のように示しています。

 我れ成仏してよりこのかた またこれにすぎたること百千万億那由佗阿僧祇劫なり。これよりこのかた 我れ常にこの娑婆世界にあって説法教化す。また余処の百千万億那由佗阿僧祇の国においても 衆生を導利す。

 申すまでもなく、ここにいう「余処の百千万億那由佗阿僧祇の国」とは、娑婆世界を中心とした三千大千世界一国以外の、百千万億那由佗阿僧祇という無量無辺の三千大千世界の国々ということです。

 これと同じことが寿量品の偈である自我偈の中に、

 餘国に衆生の恭敬し信樂する者あれば 我れまた彼の中において ために無上の法を説く

 と述べられていますが、この場合の「餘国」もまた娑婆を中心とした三千大千世界一国以外の無量の三千大千世界に外なりません。

 処で、そうした広大無辺なる大宇宙世界に自由自在に法を説かれるというお釈迦さまの仏身は法身、或いは報身であって、生身ではありえないではないか、という疑問も起こるかと思いますが、然し、説法のため出現される仏は、あくまでも娑婆八十年の生涯をおくられた生身の姿であって、三身即一の生身に外なりません。唯、現界と霊界の相違があるにすぎないのです。

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