現代の日本のお寺は、家族がいて成り立っています。妻や子供がいるのは普通です。お寺というのは、自分のものではなく宗派のものなので、跡取りがいないとお寺を出て行かなければいけません。
このように僧侶が家庭を持つのは、他にはない日本だけの特徴です。上座部でも大乗仏教でもチベット密教でも、僧侶は家庭を持ちません。本来出家者は、異性には一切触れてはいけないのです。
出家というのが、家を出ると書くように、あらゆる執着の種から離れようとするのが、出家者の元々の姿です。家庭があると家庭を守る責任があり、妻や夫、子供に対する愛着があり、教育費や生活費などを稼ぐ必要もあり、と一般的な在家者と同じような環境になってしまいます。
その環境でブッダの覚りを得ることは、極めて困難です。(不可能と断言はできませんが)
しかし、今の日本の現状では、家族の協力がなければ、お寺を維持することも難しいでしょう。(お寺の維持・管理には、かなり手間がかかります。)
日本は、独自の仏教をつくるとともに、世界に類のない独自の僧侶スタイルも創りあげたと言えるでしょう。お寺と檀家さんの関係を見ていると、これはこれで日本の風習には
合っているようには思えます。
昔、始めて公に妻帯した親鸞聖人は、自分のことを出家者ではないとしました。といって在家者とも言えないので、非僧非俗(僧でもなく俗でもない)という姿勢を貫きました。(僧籍を剥奪されたので、そうなったのですが)
個人的には、非僧非俗という親鸞の姿勢は好きです。出家という言葉を使うなら、初期・上座部仏教の出家と日本仏教の出家は違う意味合いで使われていると考えた方が、分かりやすいと思います。
それをどう評価するかは、個人の価値判断の問題でしょう。
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