ホーム 仏教のスペース Bouddhisme 九山 秀蓮 ( 1909 ~ 1983 )

九山 秀蓮 ( 1909 ~ 1983 )

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1. 生涯

九山 秀蓮(クサン スリョン)は、1909年 陰暦 12月 17日、全羅北道・南原にある智異山の山里で生まれた。15歳の時、父親の突然の死で、自ら床屋を運営するかたわら家事も手伝うなど、苦悩に満ちた青年期を過した。そうするうちに、26歳となって、名前も解らない病にかかって呻いていると、ある居士から「体は心の影で、人なら誰でも圓満に備えている自性は本来清浄であるのに、どこに病気が付いているというのか?」という話を聞いて忽然と発心した。即座に智異山の靈源寺に行って、百日間、観音祈祷をささげ、病気が治るとすぐに、出家しようと決心した。1937年、29歳で松広寺へ行って、暁峰を師として沙弥戒を受けた。

その後、九山は松広寺を始め、5年間、多くの禅院で精進した。1943年には本格的な修行のため、金泉にある青巌寺の修道庵で正覚という土窟(土のほらあな)を建て、2年余り勇猛精進した。1946年、暁峰が海印寺の伽倻叢林の方丈に推挙されると、彼を手伝い寺の任に当たったが、伽倻山の中腹に法王台という土窟を建て、修行精進も続けた。1950年、朝鮮戦争で伽倻叢林の僧侶たちが解散する中、九山は晉州の凝石寺へ行き、また参究した。1951年 43歳、冬安居の解制に伴って、彼は偈頌を書いて暁峰に差し上げた。

大地のかたちは本来、空である 大地色相本来空
虚空を指すのに、そこに心があろうか 以手指空豈有情
枯れ木は岩の上に立って季節がなく 枯木立岩無寒暑
春が來れば花が咲き、秋になれば実がなる 春来花発秋成実

暁峰は、この偈頌を見て、彼の悟りを認可した。1954年からは、暁峰に力を貸して、仏教浄化運動に積極的に參加した。1966年、暁峰が入寂する時、「松広寺を興隆させ、多くの人材を養成せよ」という彼の遺嘱に従って、居所を松広寺へ移した。3年間の努力によって1969年、海印叢林に引き続き松広寺に曹渓叢林を開設した。初代の方丈に上った九山は、本格的に弟子の養成に取り組み、松広寺は名実共に僧宝寺刹となり、普照国師以降もっとも著しく中興の気運が盛り上がった。又、国内の禅僧たちはもちろん米国やヨーロッパなど、外国から來た僧侶たちで道場はいつも修行の熱気で溢れていた。1973年、アメリカで開かれた三宝寺の開院法会に参席し、帰国する時に連れてきたアメリカの弟子など、外国人の修行者のために、彼は松広寺で韓国最初の国際禅院である「仏日国際禅院」を開院した。そこで、韓国の伝統的な禅を教えながら、韓国仏教の世界化の新しい場を作った。その後も1980年、アメリカ・ロサンゼルスの高麗寺、1982年スイス・ジュネーブの仏乗寺、アメリカ・カーメルの大覚寺を開院し、海外布教にも力を尽くした。

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翌年の1983年、松広寺の中興仏事のために開かれた後援会と冬安居を始めるにあたっての結制法語を終えた数日後、九山は弟子たちに自分のこの世での因縁が終わったことを知らせた。そして、「体に注射を打たないこと、坐禅の姿勢で葬儀を執り行うこと、和合して禅家の家風に迷惑をかけないこと、自分を騙す僧にはならず重ねて発心し熱心に精進すること」という遺訓と共に臨終偈を残した。

満山の紅葉は春の花より紅い 満山霜葉 紅於二月花

森羅万象がそのすべてを顕した 物物頭頭 大機全彰

生も空しく死もまた空しい 生也空兮死也空

仏陀の海印三昧の中で微笑みながら行く 能仁海印三昧中 微笑而逝.

12月16日の午後、九山は、彼が出家する時、師の暁峰と初めて出会った松広寺の三日庵の微笑室で、多くの門徒たちが見守る中、跏趺坐をしたまま75歳の生涯を終え静かに入寂した。

2. 著書

九山の著書には、仏教の生活化のために書かれた『七波羅蜜』(1975)と、外国人の弟子のために書かれた英文版の法語集である『Nine Mountains』(1976)がある。『Nine Mountains』はアメリカやヨーロッパなどで、東洋哲学と仏教学を勉強する人々から注目され、1980年には、その原稿に手を入れてハングルの法語集である『石獅子』を刊行した。九山が入寂した後、松広寺の仏日国際禅院で彼の参禅指導を受けた外国人の弟子たちは、彼らが目の当たりにした韓国仏教の姿と禅修行に関する感想を書いて『禅!私の選択』(1985)という書物を刊行した。また同じ年、九山の外国人弟子であった ステファン・バチュラー(Stephen Batchelor)とマーチン・フェージス(Martine Fages)によって、英文版の法語集である『The way of Korean Zen』が刊行された。さらに九山門徒会によって彼の上堂法門を収録した『九山禅門』が1994年に編纂され、1997年には80年代の初期に九山がアメリカや台湾、ヨーロッパなどを歴訪しながら説いた法門の要点を整理した『九山禅風』が刊行された。

3. 思想の特徴

九山の修行は、徹底的な話頭の修行であった。彼は「これは何か」の話頭に取り組んでこの修行を行い、次の段階として趙州の「無」字の話頭に取り組むなど、このような話頭の参究を修行者たちにも勧めた。これは「無」の前の心の状態を知るためである。「この話頭に取り組むと、自分の疑問が無という言葉と合する。その時は睡眠も食事も忘れるようになる。そして、一万年以上自ら作ってきたすべての敵と対置する状況になって、寝たくても寝られなく、左右にも、前後にも行けなくなり、最後にもうこれ以上体をあずける所がなくなる時、空に落ちることを恐れぬようになる。それで、ある日突然「ハ」と叫び、天と地とが覆ったことを感じる。さらに、凡夫にはその深さを知ることのできない所に入り、一人で高笑いした後、にこりと微笑むだけだ」と九山は語る。悟りを得た後でも、人に自分の体験を正確に伝えられるまで、自分の見解と理解を洗練させながら、それを保ちつづける保任行をしなければならず、その後に衆生を救うべきであると説いた。

九山はこのように、45年間、話頭の修行精進を行いながら仏事にも骨身をおしまず働いた。「働く修行僧」と呼ばれるほど、精進の時間以外は常に仕事の手を休めることがなく、また、修行僧たちと共に行う礼仏、共同作業、供養(食事) なども怠ることがなかった。
さらに、九山は、仏教が山の中のみに止まって、僧たちの一部の人々の専有物であってはならないと考え仏教の生活化を強調した。その方便の一つとして七波羅蜜の運動を主唱した。七波羅密とは、一週間の中の、月曜日から土曜日までの六日間は、布施(施す日-月)、持戒(正しい日-火)、忍辱(忍ぶ日-水)、精進(尽くす日-木)、禅定(安定の日-金)、智慧(賢い日-土)の波羅密を実践する日で、日曜日は、万行波羅密の日(奉仕の日)として定め、仏者たち皆が生活の中から仏教の真理を実践できるように教えた。

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