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中国における仏教と既存宗教・政治権力との対立と影響

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現在では、中国三大宗教である儒教・道教・仏教は混交しあい、日本でもそれら複数の宗教から入り混じりながら影響を受けてきた。しかし(現在の日本人からすれば意外かもしれないが)初期の仏教は、中国に入った当時、既存宗教と対立し、しばしば激しく弾圧を受けることになる。

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■儒教・・・「孝」「礼」概念をめぐる対立

 まず、思想的に大きく対立したのは、儒教である。儒教は、家族倫理を社会の基本とするため、仏教の個人主義的・平等主義的性格と対立した。

 儒教では「孝」(父母への敬愛、祖先祭祀)が重視される。よって、家を捨てることを意味する仏教の出家は、親や先祖への不孝の最たるもの、ということになる。

 また、儒教は、絶対権力者である天子は宇宙の支配者と結びつく存在と見なすが、仏教は、絶対権力者を認めない。ゆえに仏教は「礼」(人間関係の序列に基づく、特に下位の者の上位の者に対する作法。上位の者の最たるものが皇帝)に反するとされた。

 他にも、因果の認識の違い(儒教は家族の罪科を子どもへの報いと結びつけたり、個人の禍福を天の宿命と考えるが、仏教は、過去・現在・未来の個人の業が本人に報いると考え個人倫理を強調)、霊魂の存在の認識の違い(儒教は霊魂の不滅は認めないが、仏教は輪廻する霊魂を想定する)などの相違点で論争が耐えなかった。

 唐の韓退之(768~824、韓愈、唐の大詩人)、宋の朱子(1130~1200頃、朱熹、朱子学の祖)らも仏教排斥論を唱えた。

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■道教・・・思想的優位を争う

 道教(民間呪術信仰を基盤とする伝統宗教。不老長寿や現世利益を説く)も仏教と対立した。

 道教の側からは「老子化胡経」(老子がインドで釈尊の師となったという説により、師弟関係から道教の優位を説く)や「夷夏論」(夷は夷狄=未開国、夏は中国を意味する。仏教は未開国の宗教であるとする)などの経典が作成され、道教の立場を守ろうとした。

(一方で、道教と仏教は互いに影響を与え合う。例えば、仏像へ食物を供える風習は道教に由来する。)

■老荘思想・・・老荘思想による仏教教理学

 もともと中国の政治勢力・知識人は儒教倫理を常識としていた。が、政治的・社会的不安が高まるにつれ、日常的・世俗的な儒教倫理よりも、万物の根源を追究する哲学的な老荘思想が求められるようになる。仏教と老荘思想は、根源的真実を説き、解脱を目標とする点で似通っていた。

 仏教経典の翻訳には、老荘思想の術語が用いられた。老荘思想に近づけて理解された仏教を「格義仏教」と呼ぶ。

 たとえば、「涅槃」(悟りによる心の安らぎ)は「無為」へ、「真如」(悟りの境涯で見る真実)は「本無」へ、「菩提」(悟りの知恵)は「道」へ、というように、インドの仏教経典が老荘思想の術語を使って翻訳されることがあった。般若経典の「空」思想は、老荘思想の万物の根元である「無」に近づいて理解されていった。

 もともと老荘思想に通じていた学僧、僧肇(そうじょう 374?~414)は大乗仏教の経典「維摩経」に出会い感動して出家。彼が書いた注釈書(「注維摩詰経」)では、老荘思想と仏教を重ね合わせ注釈がされている。

■政治権力・・・統一国家の多民族統合に利用される

 仏教の呪術、世界観(来世往生)は王権に歓迎され、その保護によって庶民へ仏教が浸透したが、政治権力と仏教の関係は、権力交代によって大きく揺れ動いた。

 
 例えば、梁の武帝(在位502~549)は仏教に帰依、道教を廃した。寺院を多数建立し、財政を仏教に投じた。一方、北魏の太武帝(在位424~452)は、道教を信奉し、仏教を徹底的に弾圧する(彼の死後、北魏は仏教保護に転換)。

 このような保護と弾圧の交代は、王権の仏教掌握を進めることになる。隋により統一国家が建設されると(589)、仏教は多民族統合の指導理念とされ、国家権力により保護されるようになる。後の唐代では政治権力の仏教統制がさらに進行し、行政組織に仏教は組み込まれた。この国家組織との一体化は、日本の奈良時代の仏教政策に影響を与える。

資料:「仏教」廣澤隆之 より

rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=68538 から

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