まことにもっともな疑問だと思われます。自己の姿をまじめに見れば見るほど、仏性などあるとは思われません。あなたはまじめに自分をみつめていられる方です。
事実、大信海化現の菩薩といわれている善導大師でさえ、
「自身は現に罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかた常に没し常に流転して出離の縁あることなし」とおっしゃって仏になる性など微塵もないと告白なされています。
わが親鸞聖人も「いずれの行も及び難ければ、とても地獄は一定すみかぞかし 」と、これまた助かる縁の絶え果てた自己を告白なされています。 ましていわんや、我々に仏になれる性なんかあるわけがありません。
では、経典の「悉有仏性」はウソなのかといいますと決してウソではありません。仏性といえば、一般では、何か金の玉のようにピカピカ光っているもののように考え、そのようないいものが我々に備わっているように思うのですが、それは間違った考えなのです。
仏性とは我々に仏性あらしむる仏智のはたらきをいうのですから、「悉有仏性」というのは「悉有は仏性なり」ということです。普遍的に仏性は存在していますから、それが我々に作用してくだされるのです。犬には仏性はないが仏性は犬にもはたらいているということです。
ちょうど、ラジオは、そのままでは永久に発声はしませんが、電波を通じると即座に放送を開始します。テレビも、そのままでは映像をあらわしませんが、電波を受けるとたちまち受像するようなものです。だからといって、ラジオ・テレビ、そのものが声をもち、映像をもっていたとはいえないのと同じです。
「五ツの不思議を説く中に、仏法不思議にしくぞなき、仏法不思議ということは、弥陀の弘誓に名づけたり」と親鸞聖人がおっしゃっているように、仏性なき我々を成仏せしめんとする阿弥陀仏の慈悲であり本願力なのであります。
shinrankai.or.jp/qa/qa0207.htm から