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天皇家祭祀に見る日本文化考

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皇室の祭祀、大祭と小祭

 このように神武天皇と先の天皇のお祭りは大祭、それから三代前までの天皇のお祭りは小祭が行われています。また、それ以外の御祖先については年に二回、春と秋に「皇霊祭」が行われています。歴代天皇すべての天皇について個別に祭祀を行っていては、却って疎かになってしまうかもしれないということで、このような形がとられるようになったそうです。これらの皇室の祭祀はすべて宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)の中の皇霊殿で行われます。また、神武天皇祭、孝明天皇例祭、明治天皇例祭、大正天皇祭、昭和天皇祭については墓所でも祭祀が行われます。

春季皇霊祭・秋季皇霊祭

 明治維新は政治的にも武家の政治(江戸幕府)を終焉させ近代民主国家への道を切り開くものでしたが、宗教界にも大きな変革を強要しました。その中心が江戸時代にキリスト教対策で重視されていた寺を排斥・弱体化(神仏判然令・廃仏毀釈運動)させるとともに、明治維新の原動力(尊王攘夷運動と王政復古の波、平田学と後期水戸学)の一つとなった国学(本居宣長・平田篤胤など)の流れを汲む国家神道を樹立して、全国の神社を皇室に縁の深い伊勢神宮を頂点とするヒエラルキーに組み込もうと図りました(近代社格制度の整備とは、伊勢神宮をトップとした神社のランク付け)。

 この動きはいわば皇室の神道の普遍化(国家神道は、天皇の宗教的権威の中心に皇室神道と神社神道とを直結し、皇室の祭祀を基準に神社の祭祀を画一的に再構成すること)を狙ったものともいえますが、そのため初期の段階では歴代の天皇の命日を全て新暦に換算した上で、その命日全てにお祭りをする、という企画が立てられました。

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 しかし、天皇といっても初代神武から、明治天皇の先代の孝明天皇まで百二十一代に及んでいますので、これを全て命日のお祭りをするのは、実際やってみると非常にたいへんことでした。そこで明治政府は早々にこの方法に根を上げて、結局神武天皇の命日(四月三日)と孝明天皇の命日(一月三十一日)のみを残して、あとは民間でも先祖供養の日としている春・秋のお彼岸に春季皇霊祭・秋季皇霊祭としてまとめてお祭りすることになったものです。

 春季皇霊祭・秋季皇霊祭は明治十一年に祝日として定められ太平洋戦争の終わりまで続きました。戦後の春分の日・秋分の日は戦前のそういう趣旨は排除した上で、もともとの民間の先祖供養の日としての趣旨のお彼岸を復活させたものです。春季皇霊祭・秋季皇霊祭は宮中行事・皇室の祭祀として行われます。

 宮中行事・皇室の祭祀の春季皇霊祭・秋季皇霊祭は、三月の春分の日と九月の秋分の日(彼岸の中日)に、天皇家の祖先を崇める祭りです。天皇が皇霊殿で玉串を捧げて拝礼し、告文を奏します。続いて、神殿でも親祭が行われます。皇霊殿では「東遊(あずまあそび)」と呼ばれる雅楽が奉納されます。(お彼岸についてのHPより要約抜粋)

皇室祭祀

 明治十四年に制定された「皇室祭祀令」に基づいて行われます。大祭と小祭に分けられ、大祭は天皇自らが行い、小祭は掌典長(しょうてんちょう)(天皇家の私的内廷組織)が指揮します。天皇はそれに拝礼する形をとります。 

 皇室祭祀は、主として吹上御苑(ふきあげぎょえん)にある宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)で行われますが、先帝を祀る山稜でも行われます。戦前は、こうした祭祀には総理大臣はじめ多くの参列者がありましたが、昭和二十年の「政教分離」により、今では天皇家の私的行事の色彩が濃くなっています。

blog.livedoor.jp/susanowo/archives/cat_10003126.html から

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