さて、逃げ回ってもこれ以上、行くことができないので、
「お釈迦様、どうして私を苦しめるのですか」
「私がいつお前を苦しめたことがあった?私が悪口を言ったか?殴ったか?どうしてお前を苦しめると考えたのか?」
「私は賎人(賎しい人)です。ところで私はお釈迦様のような偉大な方のそばに行くだけで恐縮し、苦しくて耐えられません」「どうかついてこられずに、近くにもいらっしゃらないでください」
「それはお前の考え方が間違っているのだよ。」
人がこの世の中に生まれる時、貴い、賎しい、そんなのが書かれて生まれてくるのではないのだよ。「そのようなことは、多くを持ち力がある人たちが、お前のような者をこき使おうと作った制度であり、本来からそんなことがどこにあるか!」
だからその方がされた話が、「ではこの<糞を汲み取る>ことはどのように解決しなければなりませんか?」。<糞を汲み取る>ことは、自分は賎しいことだと考えるから。「お前は貴賎にどうしてそんなに関心が多いのか。その錯覚になぜそんなに関心が多いのか。そのまま事実のままに本質のままに見ればいいのに、錯覚になぜそんなに関心が多いのか。お前が貴賎というから私が説明をしよう」
国王や大臣といっても国民を苦しめればそれは賎しいことです。「お前のように、人がいやがる業種で熱心に働いて、他人も助け自分も利益になる、お前こそがとても貴い人間なのだよ」
だからお釈迦様が怖くないのだよ。我々が行う考えに天堂と地獄があります。
今日、私が話そうとする意図もそこにあるんですよ。だから我々がどのような考え方をし、どのように生を生きてこそ我々が幸福なのか?お釈迦様も苦悩をされ、出家して我々の存在原理を発見したものが、まさしく今日、私が話をした「縁起」なんですよ。
この地球上で起っている人種の葛藤や、民族の葛藤や、宗教の葛藤が、いま最も深刻です。このような葛藤が、すべて執着と我執と、ただ自分だけが正しいということ(のためです)。 だから六祖禅師もこのようにおっしゃったじゃないですか。「善も考えてはならず、悪も考えるなかれ。そのようなとき、私の本来の面目が何であるか?」と。ここではどのような悪も我々が憐れみによって、広い心によって暖かいのです。消えろというのではありません。消えろというのではないんですよ。
私がたまに話をすると、富に対してすごく否定的に考えているんじゃないか。また権力に対して否定的に考えているんじゃないかという、このような考えをたまにされる方がいますが、絶対、私はそうではありません。仏様もそうです。
それでは、また私が話をいたします。『金剛経』に祇樹給孤独園が出てきます。この中の給孤独というのが何であるかというと、スダッタ長者なんです。スダッタ長者という言葉はサンスクリット語で、それを漢訳をすると給孤独園になります。配給をよくするということです。誰に配給をよくするのでしょうか?疎外され、貧しく、かわいそうな人に配給をする人です。その方がとても金持ちじゃないですか!祇園精舎を建てる時、祇陀太子がスダッタ長者に、土地の上に黄金を敷き詰めたら売ってやると言った。するとスダッタ長者が実際に黄金を敷いたというんですね。そのようにすごいお金持ちでした。だからお釈迦様の言葉を聞いてみると、金持ちが何か罪人のような考えになったというんですね。ところで絶対、そのようなことではありません。だから、お釈迦様に相談をしたんです。私がこの富のために修行をできないのであれば、私がこれを貧しい人にすべて分け与え、すべてなくし、私は修行をします。その方はお釈迦様の法に対する価値をものすごく理解された方なんですね。そのような方は我々の社会にはいません。もっと持つことができなくて大騒ぎをして…これが本当に問題なんですね。だから、お釈迦様に相談をしたところ、お釈迦様の答えは「お前はもっと持ちなさい」ものすごい金持ちなのですが、「お前はもっと持ちなさい」。持つ資格があるということなんです。
その富が自分を害するとしたら、その富でぜいたくをしたり、無駄遣いをしたり、また何かどうしようもないことをする人が多いじゃないですか。そんな風に生きる人が我々の社会にも多くいます。また、それによって他人を見下したり、他人を操ったり、他人に被害を及ぼす人が本当に多いんですよ。しかし、スダッタ長者は、その富が自分を害することをせず、また他人を害することもせず、むしろ他人に助けを与え、自分を助け、そのように管理することが出来る能力があるじゃないですか?。この能力はどこから来たのでしょうか?俺がお前だ、これを超越すると、そのような能力が自然と出てきます。
それでは、すでに持っている人も持ったままでその能力を発揮し、持つことの出来ない人はできないなりにその能力を発揮し、さっき私が効能と言ったじゃないですか。そのようにするということなんです。
だから『金剛経』に、この価値を表現して、「ガンジス川の砂ほどの多くの身体をもって、朝に布施をし、昼に布施をし、夜に布施をし、一度だけやったとしてもすごいことだが、そのようにすることを百千万億劫をしたとしても、この法を理解することよりは価値がない」と。そこまではいかなくとも、我々が「俺だ、お前だ」と自分に執着して欲望の心で生きていくよりも、仏の法を理解して我々がそのように思考して生きていくことが、ずっと幸福であり、福が多いという程度は我々が理解しなければなりません。
だから仏の法に対する価値を我々は認めなければいけません。もう必然的にそのようにしなければなりません。なぜ必然的にそのようにしなければならないかというと、さっき、最初に話をしたように、我々の存在がそのように生じたから、そうなのです。では、我々本来の姿のままに帰らなければならないということになりませんか?
例を挙げると、何か機能がよい機械があるとして、その機能が作動をすることはするのだが、その機能を発揮することができないとします。故障か何かして。すると我々はその機械を使うために修理をして、その効能を100%発揮させてこそ、(そう)するように作らなければならないということなのです。そのことと同じことなのです。
我々がそのような効能と機能をもっているとしても、そのような効能と機能を発揮することができずに生きるということは、どれだけ無念なことでしょうか。だから我々は本来、私が存在している、その原理に帰って、そのように生きなければなりません。そうすると、私が、この時まで理解したことは、なぜ我々が修行をしなければならないのかという話を、私が足りない言葉で少しお話しましょう。それでは今からその機能を回復するのには、どのようにすれば最も速く効果的にすることができるのか、という話をいたします。それがまさに我々が修行している参禅です。看話です。看話禅は話頭を持って行うものです。私は疑心すると言いません。持ってするものです。話頭を持ってするものなのです。持って! だからその話頭に対して、もしかして精神統一をするために話頭を持つのだとか、疑心をするために話頭を持つのだと考える方が、私は多いと見ていますが、そうでない方はいらっしゃいますか?
ほとんどが、話頭といえば、精神統一をするために話頭を持つ。疑心をするために話頭を持つ。そのように一般的に考えています。私が会った中の90%はそのように考えていらっしゃいました。ところで話頭は疑心するために持つのではなく、精神統一するために持つものでもありません!
これが本当に重要な点です。それでは、話頭は疑心でも精神統一でもないとすると、話頭を何のために持つのでしょうか? 話頭を疑心せよと、本格的に言い出したのは、約1000年代前後のことです。
その代表的な方が誰かと言うと、大慧禅師です。私が中国の歴代の祖師の中で最も好きな方が大慧禅師です。その方が疑心せよという話を本格的にし始めたのです。では、それ以前にはどのような指導をしていたのか。そこから約250年程度、もっとさかのぼり、馬祖禅師を例として私が話をいたしましょう。馬祖禅師は、その時代は馬祖禅師だけでなく、どの禅師にも疑心せよという記録を私は見ることができませんでした。
では、その方々は、その当時、そのような修行をどのように指導していたか。この祖師禅をどのように指導していたか。例を挙げて話をすると、泐潭禅師という方が馬祖禅師のもとを訪ねて、どのようなものが禅ですかと尋ねたんですよ。どのようなものが禅か?すると馬祖禅師の答が「大勢の人がいるところでは話すことができない」。これだけでは、どのような意味かわからなかったんですね。そうすると、最近の禅師ならば「疑心せよ!そして解答を持ってこい!」。このように言うでしょう?ところが馬祖禅師は、そうはしなかったんですね。「明日来い」。そこで泐潭禅師が、とても朝早く馬祖禅師を訪ねて行ったそうです。とても気になっていたんですよ。夜通し寝ることができなかったようです。「大勢の人がいるところでは答えることができない。ああ、禅を尋ねたのに、突拍子も無く、多くの人がいるところでは答えることができないなんて・・・」。どのような意味かわからないので、間違いなく、それがどういうことなのか自然と疑心をしたということです。
ところで精神統一をする。疑心をする、というので、疑心するために話頭を持ち始めます。精神統一しようと….これは逆に言っているんです。精神統一するために、疑心するために疑心をするということなんです。知らずに疑心をするのではなく、疑心するために話頭を持つのです。これが駄目なんです。これが。すごく重要なことです。だからその時、禅師たちは疑心せよとは言わなかったのかもしれません。(疑心せよということを)言わなかったんです。
でも大慧禅師が間違っていたということでは絶対ないんですよ。大慧禅師も知らないことを私が疑心してみよ、そのように言ったでしょ?疑心するために、私が話頭を持て、そういうことではないんですよ。我々が間違ったんですよ。
だから、その方が早く馬祖禅師がいる法堂に行き、「昨日 (今日)来いといわれたので、今日、教えてください」と言うと、馬祖禅師が言われるには「昨日は大勢の人がいたから私が話すことができなかった。今日は大勢の人がいるならば話せるのだ」。正反対の言葉です。
これが我々の存在原理を表現しています。我々の存在原理を時にこのようにも表現します。『禅要』に出る話なのですが、「無心が道か? 平常心が道か?」正しくこの話なのです。大勢がいたので話すことができなかった。今日は大勢の人がいれば話すことができる。まさにこのことなのです。この話頭っていうのはですね、「俺だ、お前だ、ある、ない」それを超越した言葉なんです。だから我々は「ある、ない、俺だ、お前だ」がある限りはその言葉を理解することはできません。主観と客観ががらっと壊れてこそ、理解することができるのです。だから我々が、祖師禅師が、今日は大勢の人がいるから話すことができない。その言葉を聞く時が、言下に、一緒にがらっと壊れなければなりません。主観と客観が崩れなければなりません。だから話頭を教えてくれたのです。疑心するために話頭を持つのではないんですよ。昨日はいろんな人がいたから教えることができなかった。私は主観と客観を前提として思考をする枠組みに捕らわれているが、主観と客観が壊れる、そのような銃弾が飛んでくるっていうことでしょう。飛んできて、命中した瞬間にそれががらっと壊れてしまわなければならないのですが、だから自然と、これはどういうことかという疑心が来るのです。では第一には主観と客観とに広げられた私の意識をそのまま壊してしまいます。そのような役割をせよと禅師たちが(話頭を)教えています。
これが話頭です。これが修行であり、これが禅なのです。疑心せよと絶対、教えているのではありません。精神統一では絶対ありません。このことを明らかに知らなければなりません。
だから、これがだめな人は、やむをえず疑心をするということなんです。それは下の機根。参禅する人の中での下の機根です。だから『禅要』ではこのような人をどういうかというと、菽麦も知らない奴だ。このように言います。菽とは何かというと、豆の菽の字。麦の麦の字。豆はまんまるではありません。麦は平らで。ああ、それを知らない人が世の中のどこにいますか。菽麦も知らない…そのような人たちや、疑心するのです。本来はそのままその場で粉々にならなければなりません。ところで、それが駄目だから、仕方なくバカなことでもしなければならないんじゃありませんか?それも修行していく道だから。
だから我々は話頭が、疑心するためにするものでなく、精神統一するためにするものでもありません。強い超音波の作用でそれを壊すように、そのように壊せと両方から思考する「お前だ、俺だ、ある、ない」という、その思考の枠組みを壊そうとしたんだけれども、それが駄目だから、やむをえず我々は疑心をするということなのです。だから疑心することが悪いというのではなく、したとしても知りながら….ところで、それが疑心することだけ道があり、これが最上乗であり、また最高の勉強だと思うと、また自慢心が生じます。そういう方が多いですよ。これは僧俗問わずいるのですが、参禅だけする和尚が、参禅しない和尚を坊さん扱いしません。こんな状態では、参禅には近寄れません。いつも千里万里、後ずさりしていくのです。自分のためにもそのようにしてはなりません。自分のためにも。だから首や肩にギプスをしますが、そのギプスをしては絶対、その場を味わうことができず、近寄ることもできません。
武裝解除をしなければなりません。だから仏が悟ってからされた話があります。何とおっしゃったかというと、私が修行する時には、何か得るものがあると考えたというものです。「悟れば何か得るものがあるはずだ」。このように考えたというんです。そのように考えるときには、自分が悟ってみるから、私から全てのものを失っています。その全てのものが、さっき話した効能なんです。それを悟ってみると、一つも得るものはありません。これを知り、悟ると、私にすべてのものが具わっており完成されている。
だから禅語録には、悟るものがないことを悟るのが見性であると言っています。だから我々が、悟りがあり、悟った後に何か得るものがある、このように考えながら修行をされると、間違った道に進む可能性があります。
だからさっき私が本来成仏だ。これを知って我々が修行をすることが、ものすごく時間も節約され、とても効果的であるということが、まさしくそれなんです。本来、我々が 仏であるということを知って、我々すべてがなぜ仏かというと、「皆空〔すべてが空だ〕」であるから仏である。(ところで) 皆空であるというから、なにもなく、虚妄であり、だから話がしょっちゅう外れますが、本来成仏を、その場で話頭を参究して抜け出ると、例を挙げると、ある障害が生じるといいます。さて、それが因果関係になるとか、何かになるとか、よいです。それが何であれ、実体が無く空であることを知れば、私に来る衝擊も相当、緩和された形で衝擊が来て、またそれを消すときにも、とてもたやすく簡単に消します。また、我々はそこに行くのに、ある、ない、悟るものがある、また悟れば何か得るものがある、このように考えて修行をすれば、その障害から来る衝擊がとてもひどいものであり、それを無くする時にも相当の時間が長くかかり、力が必要です。
そして、一つ重要なことが何かといえば、我々が本来成仏を認め、それを信じ、またなぜ本来成仏であるかということまでも理解をするようになれば、現世で大悟することができないとしても、正邪の区別をします。我々が本来、仏であるということ、これを必ず心に銘記しなければなりません。
『禅要』では、この修行は水を井戸に持っていって増やすようにして、それで水を井戸に持っていって注ぐと、井戸に水がいっぱいになりますか?いくら注いでも井戸が一杯にはなりません。水に映った月をすくうようにして、水に映った月をいくらすくおうとしても、すくうことができないじゃないですか。何か得るものがあり、悟るものがあり、悟るものがあるという何かがある。いま聞き、見て、する、まさしくここなんですが、ここに執着だけを考えてしまえばよいのです。執着だけを考えればよいのです。
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