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日本に息づく新羅・百済文化探訪

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「近くて遠い国」日本。その歴史の現場を教師や市民と共に踏査する本紙の代表的イベント「第26回日本の中の韓民族史探訪」が、今月3日から9日までの日程で行われた。新韓銀行と企業グループGSが後援するこのイベントには、金文純(キム・ムンスン)本紙メディア研究所理事長、承仁培(スン・インベ)文化事業団長などの引率チームをはじめ、韓国全土から集まった教師310人、一般人218人など総勢582人が同行した。探訪団は2万3000トン級のクルーズ船とバスで、釜山-九州-飛鳥-京都などをめぐる、およそ2000キロの「学びの旅」を消化した。

博多湾からほど近い太宰府。九州を治めた政庁にして、外交上の関所であり、後方には百済の遺民が築き上げた「朝鮮式山城」大野城があった。西暦 663年、百済と(日本)列島の「光復(領土の回復)軍」が白村江の戦いで新羅・唐連合軍に敗れると、百済の遺民はこの地に渡ってきた。ソン・スンチョル江原大史学科教授は、「羅唐連合軍の侵攻に備え直ちに築かれた城が、大野城」と語った。

福岡から熊本に至る途上にある船山古墳。金銅冠・金銅飾履(しょくり)など、百済式の遺物が数多く出土した場所だ。鄭永鎬(チョン・ヨンホ)檀国大碩座(せきざ)教授(寄付金によって研究活動を行えるよう大学の指定を受けた教授)は、「古墳の前に小川があるが、古代の船着き場が発掘され、別の場所では韓半島(朝鮮半島)から種もみと農具を持ってきた移民の足跡が発見された」と語った。

8787887.gif先祖の名残はなおも続いた。大分県・宇佐神宮。新羅の釣り鐘が感嘆を呼んだ。探訪団は瀬戸内海に沿って進んだ。先祖が列島を北上したこのルートを通り、奈良に到着した。法隆寺のとある木造観音像には、「百済観音」という名前が付き、「百済の微笑」を浮かべていた。高句麗あるいは百済の影響を受けた玉虫厨子(ずし)、瓦ぶきの屋根やエンタシスなど、韓国の文化と関連する遺物が多い。

飛鳥は、6-7世紀の日本で古代文化が花開いた地域。百済の王興寺をモデルにした飛鳥寺や、6世紀以降およそ100年間にわたり事実上列島を支配した百済系の実力者・蘇我氏の巨大な石の墓だと推定されている「石舞台古墳」も、探訪団を歓迎した。

飛鳥に続いて首都となったのが京都。ここに建てられた最も古い寺が、広隆寺だ。日本の国宝第1号「弥勒菩薩半跏思惟(みろくぼさつはんかしい)像」は、新羅金銅弥勒菩薩半跏思惟像(韓国国宝第83号)とそっくりだった。鄭永鎬教授は、「日本の学者が木の成分を調査してみると、韓半島だけに生える赤松だった」と語った。

教師らの反応も良かった。リュ・ホジョン(江原道・三陟中)教諭、ハン・ビョンチョル(釜山・韓国テクノ科学高)教諭は、「歴史の舞台を直接踏査することに意味があった。現場感覚豊かに生徒たちを教えることができるようになった」と語った。

九州・大阪・京都=権景顔(クォン・ギョンアン)記者

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