ホーム 仏教のスペース Bouddhisme 消費推奨が寺院を潤わせる、仏教は中国人のセラピーに

消費推奨が寺院を潤わせる、仏教は中国人のセラピーに

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images-1-34.jpg雍和宮は、チベット仏教のお寺とされた後、仏教の伝統的な仏日以外に、寺院自身の祭日も設けられ、古代から現在まで続く。旧暦の毎月の一日、十日、十五日、三十日の午前に例行の集会以外に、毎年に重大な法事も行われる。

雍和宮には勿論、皇室の威儀や皇室の寺院としての気概がある。しかし、故宮など北京にある他の皇室の遺跡と比較すれば、雍和宮は決して贅沢な建築ではない。これは雍正皇帝が節約を唱えていた証であるかもしれない。

筆者は毎回雍和宮を訪れる際に、必ず、高さ8メートルの白檀木大仏が立っている万福閣に入る。何回も白檀木大仏を仰ぎ見たことがある筆者は毎回万福閣に入ると、やはり、驚嘆の念がむらむらと湧いてくる。

万福閣の中に立っている弥勒仏は大きいお腹がなくプロポーションがよい。一般寺院で見られる大きいお腹の弥勒仏は弥勒仏の化身を自称した五代の布袋和尚(ほていおしょう)のイメージであるという。多くの人々は誤って弥勒仏のお腹が大きいを思っている。実際には、雍和宮の弥勒像は最も正統的なものである。

雍和宮内には是非とも見学しときたい仏像展がある。展示室に陳列されている仏像は悠久な歴史で文化財として高い価値を有する。筆者個人にとってはチベット仏教の仏像が発散している強烈な芸術的感染力と芸術的美感に驚嘆せざるをえない。

話は変わる。仏教文化はかつて中国の歴史上で影響力があった文化の一つである。文化大革命の時期に消滅の危機に瀕した仏教文化は改革開放後に次第に蘇ってきた。ここ数年来、中国では消費刺激策としての「休日経済」(休日に集中的に消費することによって観光、飲食業などの発展をもたらす経済活動の形式)に恵まれ、盛んになってきている観光産業が仏教文化に繁栄をもたらした。各地の寺院では仏像の前に線香を捧げる大勢の観光客の姿が仏教文化の繁栄振りを反映している。これは中国人が豊かになった後に経済的・物質的豊かさとともに多元化する社会文化を表すものであろう。

仏教は「衆生をあまねく済度する」や「頼まれれば必ず承諾する」などの教義を唱える。従って、古くから福を求める大勢の参拝客がお寺を訪れる。仏教が中国に2000年近く存在していたという歴史的な事実を踏まえて、参拝客の存在は仏教存続の根本的な原因と言える。しかし、目下中国各地の寺院で焼香する人が異常に多いという現象は簡単に宗教的な観点から理解しかねる。寺院で焼香する人々の多くはエリート階層であり、決して仏教の忠実な信者ではない。寺院で仏像の前に香を焚いて祈祷することは彼らにとっては一種の心理療法(サイコセラピー)である。宗教的神秘感に満ち溢れる寺院は商界あるいは官界の激しい競争の渦の中に陥り、心身とも疲れきっている彼らに慰めと心理的バランスを与える。ある意味で言うと、寺院は彼らにとって情緒的なストレスを緩和し、内心の圧力を軽減する場所である。

images-35.jpg貧乏人は寺院に行けば、勿論、「お金持ちにしてください!」と祈るが、すでに豊かになった人と同じく、仏に何かを求めることが参拝者の共通心理である。こういう意味からいえば、寺院へ参拝する人々の多くは決して仏陀を求める心を生み出した善男善女ではなく、仏陀に個人的利益を求める俗人としかいいようがない。

そもそも、寺院で線香を燃やすのは無私な献上を表すことである。これは所謂「布施」の一つの形でもある。布施(ふせ)は、慈悲の心をもって、他人に財物を施すことであり、六波羅蜜のひとつである。「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」という六波羅蜜は、人を救い世を救えるような理想的な人間になるためには、どれも欠くことのできない条件である。このような仏教の教義から言えば、財福を求める前にまずは財を捨てて福を植えなければならない。財福は仏陀の喜捨ではなく、自分自身が福を植えた成果である。いくら線香を燃やしても、努力を払わずに貧乏人がお金持ちになれるのか、悪行を繰り返している人が不安感や恐怖感など心理的悩みを解消しえるのか?

(執筆者:祝斌・北京在住の社会問題ウォッチャー 編集担当:サーチナ・メディア事業部)

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