「社会参加」とは本来の宗教活動にとどまらず、何らかの形で社会に役立とうとすること。生活困窮者への支援や地域での奉仕、災害援助などさまざまな活動がある。「社会貢献」と呼ぶときには、ある種の期待感も込められる。
もっとも、日本では無信仰・無宗教と答える人が7〜8割(複数の世論調査)。金銭がからむトラブルなども後を絶たない。宗教の社会活動も布教目的と見られがち。宗教が社会に根ざしている欧米や東南アジアの諸国とはずいぶん事情が違う。
このような状況でよいのか。そんな問いのもと、宗教に関する学術大会ではこの10年、社会参加のあり方が話し合われてきた。オウムを生んだ日本社会を根本から問い直そうとの狙いもある。
成果の一端はこのほど、約20人による共著『社会貢献する宗教』(世界思想社)にまとめられた。仏教やキリスト教といった伝統宗教のほか、金光教や真如苑(しんにょえん)、創価学会、立正佼成会などによる社会活動も報告されている。
市民の違和感を踏まえつつ、社会に寄与するモデルをさぐる試みだ。全体には(1)宗教者も一市民であり、社会に参加する権利を持つ(2)宗教には世の中を活性化させる「社会資本」としての可能性がある、という立場だ。
注目されるのは北海道大学の櫻井義秀教授(宗教社会学)の「社会との積極的なかかわりによって、宗教が独善的・反社会的になることに一定の歯止めをかけられるのでは」という見方だ。編者の一人で、カルト問題の研究者でもある櫻井氏はこう話す。
「宗教が社会にかかわる際、社会から何が要請されているか、実際に何ができるかを自問してほしい。理想と現実の葛藤(かっとう)、すり合わせの経験が大事。そうした経験がないと独善性に陥り、『いいことをやっている』『何でもできる』と思い込んでしまう」
カルト問題の解決にはカルト批判に加えて、宗教の独善化(カルト化)を防ぐために、社会の側が宗教とのかかわりの「回路」を保つ必要がある、という。地域住民やNPOなどが、社会にかかわろうとする宗教者や教団と協働できれば、宗教は社会資本になるというイメージだ。
一方、伝統仏教界でも「社会参加」は大きなテーマとなっている。自死予防などの活動を通じて、自らの役割の問い直しを始めている。しかし、そこでも宗教の言葉や理念はあまり表に出しにくい。そもそも教えという「総論」では個別の問題に対応できず、宗教を超えたところで一人ひとりの力が試される。
宗教の社会貢献という問題設定は、宗教者には自らを相対化する機会となる。社会にとっては「異質な他者」との折り合いが迫られる。宗教と社会の接点には、あまり正面から論じられなかった多くの課題が埋まっている。
(磯村健太郎) より 朝日新聞 から