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玄奘三蔵

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洛陽近郊の緱氏県の陳氏に生まれる。諱は褘である。10歳のときに兄の長捷のもと、洛陽の浄土寺で出家し、玄奘 と名づけられた。隋末の動乱によって各地を転々としながらも、『涅槃経』と『摂大乗論』を学ぶ。武徳元年(618年)には長捷と共に長安入りを果たし、後に戦乱を避けて成都に至る。その後も各地を巡り、20歳で具足戒を受ける。


xuan zang
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唯識の『瑜伽師地論』等の仏典の研究には原典による他ないとし、また、同時に仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)に国禁を犯して出国した。

河西回廊を経て高昌に至り、天山北路を通って中央アジアから天竺(現在のインド)に至る。ナーランダ寺では5年にわたり戒賢より唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝した後、天山南路を経て帰国の途につき、貞観19年(645年)1月、657部という膨大な経典を長安に持ち帰った。インドにおいては、ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの厚い崇敬と保護を受け、ハルシャ王へも進講している。玄奘の旅の記録は『大唐西域記』として残されており、当時のインド社会の様相を伝える貴重な歴史資料ともなっている。帰国した彼は、持ち帰った膨大な梵経の翻訳に専念した。

貞観19年(642年)2月6日に弘福寺(のちに大慈恩寺、玉華宮)の翻経院で太宗の勅命によって始まった玄奘の翻訳は、『大般若経』600巻等、76部1,347巻に及んだ。長安の大雁塔はインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、玄奘が高宗に申し出て652年に建立された塔である。
麟徳元年(664年)、長安近郊の玉華宮において寂した。

>玄奘の翻訳は、その当時の中国語に相応しい訳語を新たに選び直しており、それ以前のクマーラジーバ(鳩摩羅什)らの漢訳仏典を旧訳(くやく)、それ以後の漢訳仏典を新訳(しんやく)と呼ぶ。一例として『般若心経』も彼が翻訳したものとされているが、この中で使われている観自在菩薩は クマーラジーバによる旧訳では観音経の趣意を意訳した観世音菩薩となっている。訳文の簡潔さ、流麗さでは旧訳が勝るといわれているが、サンスクリット語の原語「アヴァローキテーシュヴァラ」は「自由に見ることができる」という意味なので、観自在菩薩の方が訳語として正確であり、また玄奘自身も旧訳を非難している。

一説では唐の太宗皇帝の姓名が「李世民」であったため、「世」の字を使うのが避諱によりはばかられたからともされる。一方、玄奘にはこの『般若心経』をはじめとして維摩経など、あたかもクマーラジーバ訳に上書きして済ましたかのごとき翻訳もあり、彼の学究としての興味の程度により仕事ぶりが変わるようである。

『西遊記』は、『大唐西域記』や 玄奘の伝記『慈恩伝』を踏まえたうえで書かれており、玄奘は三蔵法師という名前で登場している。三蔵法師とは経、律、論に精通している僧侶に対して皇帝から与えられる敬称であり、本来は玄奘に限ったものではない。例えば鳩摩羅什、真諦、不空金剛、霊仙なども「三蔵法師」の敬称を得ている。しかし今日では特筆すべき功績を残した僧侶であって「三蔵法師」といえば、玄奘のことを指すことが多くなった。

玄奘について詳しく知りたいなら(玄奘三蔵―西域・インド紀行)で参考してください。

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