ッダの教えは宗教でも哲学でも体系でもありません。
>それはまさに物事のあるがままを示す教えなのです。もちろんこれとは対照的に、ミャンマーやその他の国々にはありとあらゆる仏像や建造物があって非常に宗教的な面が見られるのは確かです。
しかし、このような宗教的な側面、祈祷や礼拝を必要としているのは、人々の方なのです。
ブッダの説法を本当に守るならば、本来、私たちはこれらの仏像や建造物とは無縁のものです。ブッダは発見者です。ブッダはいわば何かを発見した科学者であり、そこから宗教をつくられたのでも儀式をつくられたのでもありません。ブッダは新しい法則を発見され、その法則を説き示されました。ブッダの弟子はこの法を聞き、これを学びます。
そしてひとたびよくこの教えを習得したならば、今度は弟子たちがそれを教えることができるようになるのです。法輪はすでに見出されたのですから、敢えて再び作り出す必要はありません。大地は開拓されたのですから、何であれ、敢えて再発見する必要はないのです。
こうして私達はブッダの後につき従って「声聞」(仏弟子のこと)となり、ブッダの教えを聞きます。
私達はブッダの説かれる自然の法則を理解しようと努め、ひとたびそれを理解したならば、今度は私達がその教えを伝えることができるのです。
ですから、祈りも儀式も神のご加護を祈ることもありません。自分自身以外の誰をも当てにはしないのです。ただ自分自身に対してなすべき務めがあるだけです。
それは、とりわけ、理解するという務めです。
なぜなら、実のところ私達は、無知な大きな子供にすぎないからです。
そもそもブッダご自身がこうおっしゃいました。
「私の教えは幼い子供のためのものではない」
– Source : www.dhammadana.org