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戦国武将の蒸し風呂 信長・秀吉、接待に活用?

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茶の湯と庭の眺め、3点セットで

京都市中京区龍池町の織田信長邸宅跡で見つかった蒸し風呂の遺構から、戦国武将が風呂上がりに茶を一服する「淋汗(りんかん)茶の湯」を楽しむ姿が浮かび上がってきた。単なる嗜好(しこう)ではなく、客人のもてなしや情報収集、権力誇示に使われたのではないか。そして、西本願寺(下京区)にあるほぼ同時代の蒸し風呂「黄鶴台(おうかくだい)」(重文)との関連も。戦国時代のサウナの発見に、想像が膨らむ。【熊谷豪】

 市埋蔵文化財研究所の発掘調査で今年初め、信長の邸宅「二条御新造(ごしんぞう)」からU字形のかまど跡(幅1・1メートル、奥行き1・7メートル)や礎石が見つかった。かまどの上にすのこを張り、湯を沸かして蒸す仕組み。洛中洛外図屏風(びょうぶ)にも描かれ、02年に遺構が発見された龍躍池を望む場所にあり、庭と茶の湯、サウナを3点セットで堪能したようだ。

 これまでの学説や史料によると、そもそも入浴は古代や中世、「身を清める」という仏教思想から寺院で発達し、布教活動にも使われた。だが、湯を沸かすのはぜいたくで、一般庶民が日常的に銭湯に行くのは江戸時代になってからだ。

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 だが、貴族や武士ら上流階級の間では、酒や料理などの歓楽と結びついた。15世紀には、淋汗茶の湯が流行。足利幕府八代将軍・義政に代わって実権を握った妻の日野富子は、邸宅に蒸し風呂を作った記録がある。風呂上がりに茶会を催し、上流階層の社交場になったという。

 建築当初の姿を今に伝える数少ない例が、安土桃山時代の黄鶴台だ。渡り廊下でつながる三層楼閣「飛雲閣」(国宝)と共に豊臣秀吉の邸宅「聚楽第」の遺構との説もある。「天明の大火(1788年)で焼け出された公家が飛雲閣に泊まった」。西本願寺に伝わる数少ない史料は僧侶らが日常的に使ったのではなく、客殿だった可能性を示唆しているが、推測の域を出ない。

 信長に仕えた秀吉も、サウナや庭園を見ながらの茶を接待に使ったのではないか。西本願寺の本願寺史料研究所の大喜直彦・主任研究員は「信長のサウナと時代が近接し、構造も似ている。同じ使われ方だとしてもおかしくない」と慎重な言い回しだ。また、発掘に携わった市埋文の柏田有香さんは「戦国武将も蒸し風呂を楽しんでいたことが分かり、重要な発見だ」と話している。

毎日jp から

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