Q. 『なぜ仏教徒はろうそくを捧げるのですか?』
仏・法・僧に対して確信を持つ人々が、お釈迦さまにろうそくの灯を捧げるとき、法(お釈迦さまの教え)のことを思い起こします。お釈迦さまが悟られる以前のこと、この世界は欲と怒りと無知に覆われ、暗闇と混乱のなかにありました。お釈迦さまのこころの中に深く根づいていた無知という暗闇を、ご自身の智恵で根絶し、悟られてすぐに、お釈迦さまは、この世の中が欲望で染まり、暗闇に覆われていることをはっきりと観ました。そして、そのなかで長い間苦しんでいる生命たちを見て、哀れみを感じました。そこでついにお釈迦さまは、この暗闇の世界に、ご自身が悟られた『真理の道』を教えることにしました。貪りには与えることを、怒りには優しさを、迷いには確かな道を、とあたかも暗闇の中に燈火をかかげるように、お釈迦さまは真理を明らかにされました。
仏教徒は大抵、智恵を光にたとえます。彼らは、お布施から始まる『道』を実践することによって、彼ら自身に智恵の光が現れることを望みます。だから、お釈迦さまにろうそくの灯をささげるときにはこころの中で法と智恵の光のことをよく考え、静かに「私に智恵の光が現れますように」と望むのです。さらには、ろうそくが少しずつ短くなり、やがて灯が消えてしまうのを観察し、「永遠のものは何もない。私も少しずつ歳をとっていつかは死ぬ。だから死ぬ前に、お布施をし、道徳を守り、こころを清らかにしよう」と考えるのです。
Q. 『線香や花にも意味があるのですか?』
線香の香りがあたり一面に広がり、人々が心地よく満たされる様子を、善行為(功徳)があたり一面に行き渡り、人々に幸せと平和が訪れる様子になぞらえて、それをこころから望んでいるということなのです。花についても同様です。
もちろん、これらを気にしない人々もいるでしょう。何の考えもなく注意も払わず、ただ伝統に従ってやっているだけの人もいます。このような人は世界中に数多くいると思いますが、仏教国であるミャンマーには、お釈迦さまの教えに確信を持ち、専心している人々がたくさんいます。彼らはこの法の国で、互いに仲良く、笑顔にあふれ、平和でこころ安らかな暮らしを営んでいます。
ミャンマーの仏教徒は、大抵朝早く起きて料理を作り、誰もまだ手をつけていない最初の食事をお釈迦さまに捧げます。そして「この徳ある行為が私の解脱を支えてくれますように。この功徳が私を、こころの汚れの終焉へと導いてくれますように(Idam no puññam Nibbânassa paccayo hotu. Idam no puññam âsavakkhay âvaham hotu) 」などの言葉を唱えます。
私たちは、愛する人と別れたり、嫌いな人と一緒に暮らしたり、お金をたくさん持っていても欲しいものが手に入らないなど、この世でどれほどの苦しみを味わっていることでしょう。ですから、本当に輪廻を理解した仏教徒は、終わることのない欲の連鎖の中で長く生きる意味はないと考え、欲を絶つことができるよう、布施、道徳、こころの訓練の3つを実践しながら智恵を育てています。布施によって欲や貪りから離れ、戒律を守ることで悪い行いから離れ、また、こころの訓練によって心の汚れが取り除かれることに確信を持っています。こころが充分に落ち着くと、自ずと明晰な智恵が現れます。これら3つの実践は、涅槃もしくは来世の善き生へと導いてくれるのです。生きることの痛みを本当に理解した仏教徒は、智恵を育てるため、瞑想に励みます。そして、自分自身の身体とこころに起こる事象を観察することによって智恵が現れたとき、その生はたやすく、幸せなものになります。
人は、自分自身の身体とこころを観察する方法を学ぶべきです。それは我々自身も実践し、他の人々にも奨励し指導している「ヴィパッサナー実践」と呼ばれるものです。これは、健全な人生を生きるための、最も簡単でかつ効果的な方法です。実践のときは、自分の身体とこころの動きを観察すること以外のどんな方法も、一緒に行ってはいけません。実践によって、我々は初めて、真に生きることができます。普通、人は本当の自分の人生を生きてはいないのです。こころはいつも暴れ回り、迷いの中にいます。必要なときはもちろん、考えなければなりませんが、ほとんどの時間、こころは無意味にさまよい、我々を疲れさせます。自分のこころの舵をしっかりとりたければ、ヴィパッサナーを学び、実践してください。遅かれ早かれ、自分のこころをコントロールできるようになるでしょう。
j-theravada.net/whatdoes.html から