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仏教徒は祈らない (一)

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Q. 『仏教徒は、神としてお釈迦さまを信仰しているのですか?』

 いいえ。仏教徒は、お釈迦さま自らがヴィパッサナー実践によって目覚められ、この上なく完全に悟られた方であるという理由で、お釈迦さまを信じているのです。お釈迦さまは実際にこの世界で生きていらっしゃった方で、肉体的には完全に人間でしたが、精神的には、この全宇宙のすべての生命とひき比べても、想像を絶するくらいに偉大な方でした。しかしお釈迦さまは、自らを「唯一のものである」とおっしゃることはありませんでした。お釈迦さまはよく、「心の汚れを完全になくした生の勝利者はみんな私と同じです」とおっしゃいました。

 お釈迦さまは、人々に恐れを持ってもらいたくなかったのです。お釈迦さまの悟りが、本物なのか偽りのものなのかと確かめることさえも、人々に奨励しました。お釈迦さまは、「宗教に従おうとする人々は元来、恐れを持っています。しかし、私たちは何も恐れる必要はありません。『恐れる』のではなく、ものごとを『理解する』ために適切に調べることが必要です」とおっしゃいました。私たちはお釈迦さまの『お告げを受けた』のではなく、お釈迦さまから『学んだ』のです。

Q. 『お寺では、仏像の前で祈ったり礼拝している人々を見かけることがあります。これにはどのような意味があるのですか。また、額のまん中に両手を合わせて深く礼をするのはなぜですか。お釈迦さまに祈っているのですか?』

 仏教徒は『祈る』ことはしません。でも、私はすべてのお寺を訪れたわけではありませんから、もしかすると祈っている人々もいるかもしれません。私はマハガンダーヨン僧院で修行した僧であり、人々にお釈迦さまの正しい教えを伝えています。私は皆さんに、お釈迦さまに祈ることや、祈る方法を教えたことは一度もありません。しかし、私たちを真理、涅槃へと正しく導いてくれる精神的な先生として、またお釈迦さまの悟りと智恵を思い起こして敬意を払うように、と教えています。ですから彼ら仏教徒は、お釈迦さまの像の前で、額に両手を合わせて礼をするのです。それは、悟りを開かれたお釈迦さまへの尊敬と感謝を表しているのです。

Q. 『彼らは3回、礼をしていますね。最初の1回はお釈迦さまに対してだと思うのですが、あとの2回は誰に対して礼をしているのですか』

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 仏教徒は、仏・法・僧の三宝に信を持っているんですね。もうおわかりだと思いますが、お釈迦さま(Buddha)は、世界中のすべての仏教徒の先生にあたります。『法』(Dhamma)とはお釈迦さまの教えのことで、普遍的な真理のことです。身体と心に現れては消えて行く現象のこともDhammaと呼びます。たとえば怒りもDhammaなんですね。どうしてかというと、それは誰にでも起こるものだからです。怒りが生まれて消え去っていくという現象は、どんな生命にも共通しているものなんですね。また、その影響も共通しているんです。怒りが心に現れたら、イライラしたり、興奮したり、ときには血の色が顔に現れ真っ赤になります。怒りをコントロールするのが難しい人は、喧嘩をしたり悪い行為を行ってしまったりします。でも、怒りというものも、遅かれ早かれ、いつかは消えてなくなってしまうものではないでしょうか。自然の法則によれば、消え去っていくものなのですね。ですからお釈迦さまは、Dhamma(法)を理解するようにおっしゃいました。たとえば、忍耐や思いやりや智恵を理解すれば、清らかな心が自ずから生まれてきます。清らかな心が現れてくれば、怒りは小さくなっていき、やがてはなくなってしまいます。そして、穏やかな気持が訪れます。ですから私たちは、お釈迦さまの教えであるDhamma(法)に敬意を払うのです。

 3つ目の宝は、お釈迦さまの弟子である僧侶たち(Sangha)です。彼らは、真理の道を歩くすべての者たちの手助けをします。Sanghaはお釈迦さまの教えを学び、戒律、禅定、智恵の3つの実践に励み、また人々に、心を清らかにすることを教えています。彼らは人々に、心を成長させるために必要な、布施(dâna)、道徳(sîla)、心の訓練(bhâvanâ)の実践方法を教えています。布施、道徳、心の訓練という3つの実践は、最終的にはすべての身体と心の苦しみから、私たちを解放してくれるでしょう。私たち仏教のSanghaは、お釈迦さまに祈ることは教えません。が、仏・法・僧を理解し理解によって、三宝に敬意を払うことを教えています。

j-theravada.net/whatdoes.html から

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