ホーム レッスン Articles et conférences 自分の中に仏国土を築くことから、なぜ自分のまちに仏国土を築くという考えが出てこないといけないのか?

自分の中に仏国土を築くことから、なぜ自分のまちに仏国土を築くという考えが出てこないといけないのか?

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ベトナム出身の仏教者でティク・ナット・ハンという方がおられるそうです。その方は 欧米で大変信望を集めておられるとのことですが 「この一枚の紙の中に、雲が浮かんでいるのを見えますか?」とおっしゃっているそうです。 雲がなければ雨はなく、雨がなければ木は育ちません。そして木がなければ私たちは紙を作ることができません。紙が存在するためには雲はなくてはならないものなのです。思いを静めると全体が見える、その全体を見渡して生きよ・・・ということなのでしょうか?私もなるほどうまい事をおっしゃるものだと感心しました。

ところで 紙を自分に置き換えますと どうなるでしょうか!? ①「自分」の中に他人を、社会を、世界を、そして ②「今」の中に 今の“因”となった過去と 今の“果”となるであろう未来をも見よということになるのではないでしょうか!?

ならば言いたいのです!

① 兆円単位・何千億円単位の営業利益を出している会社が一方にあり、同時にいくら働いても年収が200万円そこそこの大勢の人が共に存在している今の日本、1998年以来続いている3万人を超える人々が自殺している今の日本・・・目の前のこの社会の現実の中に、何か大きな「何故このようなことが起きているのか?」その原因をわれわれはなぜ探ろうとしないのでしょうか?!最近の大分の教育委員会の事件にその典型例が見られますように現在の社会的不公正のかなりの多くは 実は 社会の制度や仕組みそのものが生み出したものであります。何故問題の背後に社会の制度や仕組みを見ようとしないのでしょうか?!

② 私のサラリーマン時代がその典型でしたが、社会の制度や仕組に対して疑問を呈し、改革していこうとしない態度こそが 今の日本の問題の“因”となってきたことに何故気づかないのでしょうか?! このような態度を取り続ける限り これから生まれてくる子供たちにとってどのような社会が待ち受けているかその将来の“果”を何故想像しようとしないのでしょうか?!

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確かに どんな構造も仕組みも それは手段に過ぎません。手段はあくまで使い用です。使う側の人間が自分のエゴを滅しない限り いくら構造や仕組みを変えても問題は残り続けることは間違いのない事実だと思います。また ちょうど達磨さんがそうされたように 自分はただ坐禅をし続けるだけ 世界の全ての人が 滅の生き方を選ぶようになるのを待つというのも一つの方法かも知れません。しかし そのような方法は 百年河清を待つ以上に不可能な目標であるばかりではなく 何よりも その人が 社会の構造や仕組みが生み出す不公正の加担者の道を選択し続けていることになることはこれまた間違いない事実なのではないでしょうか?!

私は 「個人の幸せや生き方」を考えるとき いつも、サラリーマン時代に聞

いたか読んだかした言葉「工場の生産性は 実はその過半が工場のレイアウトを決めた時点で決まってしまってしまう」を思い出してしまいます。社会の構造や仕組みや制度がかなり多くの部分 その時代その社会に生きる人間の幸せや生き方を決めてしまいます。心ある僧侶や教団は、確かに外国の難民救済や世界の平和を求めるなどのいろいろなNPO・NGO活動をされています。それも大いに結構 しかし われわれの周囲のいろいろな社会的不公正の背後にはその原因となる社会の構造や仕組みが存在していることにせめて少しは想像力を発揮すべきはないでしょうか。そして 苦を生み出す国や社会の構造や仕組みを変えていくことに少しは努力をすべきではないのでしょうか。

やはり オレがオレがというオレとその他を分けてしまう思いを静めるだけでは、それは自分個人の救済に留まるのではないでしょうか?!思いを静めて上で つまり自他不可分の地盤で しかも 思い切り思いを働かせて全体を見渡して 社会生活は送らねばならないのではないでしょうか?!つまり 心の中に仏国土を建築するということは 取りも直さず 自分の住むまちをも仏国土にすることでなければならないのではないでしょうか!? これこそが また 自分個人の解脱ではなく 他人を救う菩薩行を目指す大乗仏教(界・徒)の役割なのではないでしょうか?!

山内庸行 より




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