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チベット仏教 修行

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ある人が、中沢新一のやっている「ゾクチェン研究所」の機関誌のようなものを送ってきた。その人の文章がのっていたのだが、それはいまそれとして、こういうものがあるっていうのは、ゾクチェンをまじめに広めようとしているのだなあ、と思った。中沢新一も、結局ゾクチェンを日本に紹介するということがライフワークとして重要なので、現代思想とかいうものとドッキングさせようという文章のたぐいは将来に残ることはないと思うけど。つまりこれが彼の本来の道なのかな、ということを言うのはおこがましいけれどもそう思った。ただ、その文章の中で中沢は、みんな「宗教」になってしまったからダメなので、自分の中にある知性として「それ」を追求しようとしたのはゾクチェンだけなのだ、とゾクチェンの優位性を強調するのだが、そういうのはいまの私にはちょっと乗れないなあ、と思う。どうしてゾクチェンだけなのかな、というのは、私がゾクチェンの思想を知ったとき、これは禅と同じなのだな、と思ったのだ。もちろん細かいところを言えばきりがないかもしれないが、いかなる対象化も認めず純粋に「叡知」のみをめざすという姿勢において禅と変わりがない。というと、私たち日本人は禅の伝統をもう一度学び直すことの方がわかりやすいのだし、いい師匠も見いだしやすいのではないだろうか。何もわざわざチベットやヒマラヤに行かなければ悟りへの道は歩めないということはなかろうし、と思う。チベットというのは一種のあこがれを感じさせるものではあるが、それも一つのブランド信仰のようなものかもしれない。といっても私はもちろんゾクチェンをまじめに探求しようという姿勢に敬意を払わないというわけでは決してない。それでも、なぜゾクチェン? というのは、現実にいま日本に生きている私たちにとって、それを「どう学ぶのか」がなかなか見えないからだ。つまりゾクチェンというのは文献だけ読んでいたってしようもないもので、要するに「やる」しかないもののはずなのだ。まず第一に師を見つけて弟子にならなくてはならない。そういうシステムになっているものが、果たしてどれだけの日本人にアピールするというのか。もちろん欧米などでは、けっこうワークショップスタイルみたいなチベット仏教の教え方も広まってはいるのだが。

つまりいまさらチベットを持ってこなくても、自分の中にある純粋な叡知として霊性を知ろうとするのは日本の伝統の中にもあるわけで、それを中軸として霊性思想を樹立しようという試みも、久松真一とかその他いろいろあるわけなので、チベット仏教というのはあくまで「まあそれに縁のある人はやったらいいんじゃないですか」という以上のものではないように思うのだ。もちろんチベット仏教を知ることによって仏教の本来の叡智的伝統を再確認するというのはたいへんいいことには違いない。しかし現実の実践の道としては、いろいろあるうちの一つというもの以上にはならないだろう。「これしかない」ということはないと思う。
それにしても、叡知というものが内在しているという原則論を確認するのはいいことだとしても、それを外部に求めて宗教にしてはダメなのだ、と断定していいものなのか。つまり、ヒューストン・スミスの本にも出てくるけれども、「究極の無としての神」(つまりそれはもはや神という名で呼ぶこともできない、「空性」という仏教の表現に近くなるが)だけではなく、「有の相における神」の意味というものが、むしろ日本人(特にインテリ層)にはわかりにくいし、いまの日本の思想にはむしろそういう理解の方が必要かもしれない、と私は思うのだ。有の相、というのは要するに、いまの私たちの外部にあると意識される、人間でも絶対者でもない「中間的知性」であり、つまり天使とか菩薩、神々、マスターなどという言葉で表現される叡知存在のことである。それは究極的には存在しない。しかし私たちのような部分的自覚しか持たない意識存在にとってはリアルなものとなりうる。そしてそこからの「恩恵」や「指導」が存在するということも人間の経験しうる範囲としてあるのだ。私はこういうことを、初期キリスト教や東方キリスト教の世界にしばし沈潜している時に確信するようになった。そして恩恵や指導は私にとってはきわめて現実的な経験としてもあるものだった。それを抜かしては結局本当には霊性への道を歩むことは難しいという実感があるのである。そういうことをふまえていうと、中沢が少なくともその文章で言っているようなことは、過去に多くの日本の思想家が言ってきたこととそれほどかわらないし、宗教思想家として特にインパクトのある発言ではないと思う。中沢新一は、自分が知っているはずの「リアルなもの」をはっきりと書き表すことから結局は逃げて、知識層にも受け入れられそうな無難な表現にしているのではないか。つまりは「叡知というものがありますよ」ということは一生懸命言うが、人間は死んだらどうなるのかというような重大事には何も口を開かないのは、ケン・ウィルバーと似たところがあるような気がする。私に言わせればそれは逃げである。やはり世間にどう思われるかが怖いのではないか。

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