仏教発祥の地インドにおける精進料理の発生
精進料理は、仏教思想の戒律によって生まれた。
仏教発祥の地インドのヒンズー教徒や仏教徒は牛を食べないことで知られているが、それ以外にも多くの宗教や民間信仰が存在し、その数だけ食の禁忌が定められている。
しかしながら歴史をさかのぼってみると、古代インド(B.C.2300~2000年頃)においてインダス文明をおこしたドラヴィダ人は、主食としていた小麦や大麦のほかに牛乳・魚・牛肉・羊肉・豚肉などを食べていたらしいことが報告されているし、その後インドにア-リア人がやってくる(B.C.2000~1500年頃)と共に彼等の宗教としておこされたバラモン教においても、儀式の際に多くの動物(特に牛)を殺し、肉食も盛んに行われていた。
そのような背景を持つインドで肉食禁忌が発生したのは、釈迦の仏教慈悲の精神に基づいた「五戒」*の一つ、「不殺生戒」の教義が出家・在家の信者達に伝播・浸透する過程においてであったと考えられる。
*五戒:在家の信者が守らなければならない基本的な五つのいましめ。不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒の五つ。
中国の仏教伝来と精進料理の発展
中国に仏教が伝来したのは、中国固有の文化として隆盛をきわめた儒教が学術文化の大略を整えたB.C.1世紀頃、二人のインド僧を迎え入れるために白馬寺という寺院を建立した時に始まったと言われる。
その後中国で仏教が深く根をおろしたのは、インドから渡来した支婁迦讖などにより仏典の漢訳が進み、鳩摩羅什による経典翻訳がなされた5世紀前半頃である。そして、この頃には仏教が五戒の第一等にあげる「不殺生戒」にもとづいた「肉食絶対禁忌」すなわち菜食主義の実践が顕著にみられるようになったものと考えられる。
北伝仏教(大乗仏教)では一切の「肉」の食を禁じるのに対し、南伝仏教(小乗仏教)では「見聞疑の三肉」*を食することを禁じている。
ところで、中国に仏教が伝来したとき、同時に精進料理も伝えられたのだろうか。
中国には、仏教が伝えられる以前から、儒教や道教の影響により、すでに仏教食に酷似した「菜食」(植物料理)があったのではないかと思われる。
儒教の「医食同源」「薬食一如」といった食法では、上司、肉親、近親者の死別に際して、喪に服する時の食は「疏食」(菜食)とすることが、死者に対する礼儀であるとしていることなどがその例である。 さらに道教でも、医術と神仙思想の両面から「不老長生」を基本理念としたので、当然「養生食」の効力については熟知していたことだろう。
これらの菜食を原型としたうえで、幾度となく仏教的意義づけがされて、本来の中国料理とは異なる中国風僧院料理が独立形成されたものということができる。
仏教の母国インドでは生産生活そのものが許されなかった僧侶達は布施によって食を得ていたのに対し、中国の場合は、深山幽谷の地理的条件のなかで自給自足を旨とした生活規範が培われ、理想の菜食の形が徐々に形成されていったものと考えられる。
*見聞疑の三肉:
* その動物が殺される現場をその比丘が見た肉
* 自分のためにわざわざその動物が殺されたと聞いた肉
* その疑いのある肉
日本の仏教伝来と精進料理
日本に仏教が伝来したのは日本書紀によると552年であり、百済の聖明王が大和朝廷に金銅釈迦像一体と仏教経典を献じたことに始まる。これは、中国より500年、朝鮮より170年遅かったことになる。
精進料理も、仏教の伝来初期において朝鮮を経由する形で伝えられたと思われる。その後、菜食が中国から直伝したのは、おそらく8世紀半ばすぎのことと考えられている。しかし、当時の菜食がどのようなものだったのかは定かではない。
一方、日本国内では、725年に天武天皇により「肉食禁止令」が発布されたことにより、僧侶は一切の肉食を禁止され、一般庶民においても菜食の傾向が強くなる。
鎌倉時代初期、浄土真宗の開祖、親鸞上人によって「同行」と称して、肉食妻帯を許し、それまでの形式主義ともいえる禁欲生活、ある種の圧制に抵抗して、改革が行われたが、その一方で「精進日」がもうけられた。これは肉親や近親者の死別や法要に際しては、せめてその日ぐらいは、弔意を表すことは死者に対する礼だと正したものである。この「精進日」ができたことで、必然的に発生したと思われるのが、「精進入り」、「精進明け」という、その前後日を用語化させたものである。
しかし、このほぼ同時代に、日本曹洞宗の開祖、道元禅師による徹底した禅林思想によって、「典座教訓」「赴粥飯法」、「正法眼蔵隋聞記」が著された。
これらの典範は、単に叢林の食法の教えではなく、禅門の食事観をも根底から改めたであろうことは想像に難くない。
すなわち、日本で真の「精進料理」の在り方を示し、日本的「精進料理」の中興としたものである。この典範が以後中世室町期を通してほぼ全ての儀礼の場から、獣肉の姿を消し去ることになる。
この、仏教の思想ともいうべき寺院料理が、旧仏教以来わが国の食事文化の発展に顕著な役割を果たしてきた。中世鎌倉期に招来された禅院の食味・食儀・食礼は、日本的「精進料理」の原型となり、わが国固有の、もう一つの日本料理の在り方を示した。近世に入ると「精進料理」は、門外不出とされる料理法に至るまで、山門を抜けて庶民の食生活の場に普及していく。これは江戸期の京料理の母胎となり、茶事懐石の規範の原点ともなり、その後日本料理の本流となった本膳料理の形式化においてさえ、「精進料理」がその典範とされている。
ところで、庶民にはどんな形で精進料理が受け入れられたかをみてみると、仏教的食の節約を切り捨てて、本来の精進料理とは別の「菜食惣菜」という形で進展したものと考えられる。
そのことはまた、後代の京料理が、野菜を中心とした献立構成になったことと無縁ではない。
精進料理も京料理に代表される野菜料理もともに、仏教の歴史的な舞台の場として栄えた京の都を中心に形成され、室町時代以降に顕著な発展を遂げたと考えられる。
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