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大乗仏教の展開

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インドでは、西暦紀元前後ごろから大乗経典が世に現れ、二~三世紀に活躍した龍樹以降、大乗の教義に関する論書が本格的に著された。しかし、すべての仏教徒が、一気に大乗仏教に傾倒し、ブッダになることを目指すようになったわけではない。依然として、多くの人々が伝統的な部派仏教の教説に従い、生天を望み、阿羅漢になることを目指していたのである。彼ら部派仏教徒は伝統的な仏典(阿含、ニカーヤ)のみに従っていた。一方、大乗仏教徒は、それに加えて大乗経典にも依拠したのである。

 いったん、世に出た大乗経典の中には、当初存在しなかった概念やエピソードが加えられて変容するものもあった。また、新たな経典が続々と登場し、三世紀以降には、如来蔵思想を説く『如来蔵経』『勝鬘経』『涅槃経』などが現れた。如来蔵思想とは、すべての衆生が本来的には如来となる可能性、または如来そのものを宿しているという考え方である。私たち衆生は煩悩に覆われている。しかし、それは一時的に付着したものに過ぎず、本来的には私たち衆生の心は清らかであって、如来と変わらない本質をもっているという主張である。

 四世紀頃には、『解深密経』など理路整然と唯識思想を説く経典が現れた。唯識とは、認識の直接の対象は識(心)の中にあるのであって、外にあるのではないという考え方である。なお、究極的には識の存在も否定されるので、心を実在視する単なる唯心論とは異なる。

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 この唯識思想は、三性説、阿頼耶識説、唯識観の実践という三つの教えを軸に、瑜伽行派と呼ばれる論師たちによって整理された。三性説とは、我々の見ている世界は見方によって三通りの顕れ方をするという考え方である。この世は、あらゆるものが他によって起こり絶えず変化している(依他起性)が、人々はそれを誤って固定的に実在するもの(遍計所執性)と捉えてしまう。しかし、そのような分別を離れると、あるがままの姿(円成実性)が立ち顕れてくるという。

心の仕組みを考える

また、瑜伽行派は心の仕組みの考察を深め、心を眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識(自我意識)・阿頼耶識(心の根源)の八種類に分類した。末那識が阿頼耶識を自我と見誤ることによって、自我に対する執着が生じると考え、修行によってこの見誤りをなくすことを目指した。彼らの唯識観の実践は、瞑想に入り、心の中に対象をイメージし、それを除去することを繰り返すことを基本とする。認識の対象、及び認識する心の非存在を段階的に理解していき、諸々の執着を離れ、最終的にはブッダの境地に至ることを目指すのである。

 唯識思想は、『摂大乗論』『顕揚聖教論』などを著した無著(アサンガ、三九五~四七〇年頃)、『唯識三十頌』などを著した世親(ヴァスバンドゥ、四〇〇頃~四八〇年頃)の兄弟によって組織体系化された。『唯識三十頌』は特に関心を集め、多くの論師によって注釈が加えられたが、それらは玄奘が著した『成唯識論』を通して中国に伝えられている。

(文・鈴木健太◎東京大学大学院博士課程)



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