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三法印

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仏教の特徴をあらわす三つのしるし。

(1)諸行無常 あらゆるものは変化してやまない

(2)諸法無我 いかなる存在も不変の本質を有しない

(3)涅槃寂静 迷妄の消えた悟りの境地は静やかな安らぎである

 諸行無常は、あらゆるものは絶えず変化してやまないことをいいます。『平家物語』の冒頭で有名です。

「祇園精舎の鐘のこゑ、諸行無常のひびきあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる者もひさしからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もつひにはほろびぬ、ひとへに風のまへのちりに同じ。」

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 諸法無我は、因縁によって生じたもので実体がないという意味であって、有我説のバラモン教に対して仏教は無我説を主張しました。常に同一の状態を保ち、自らを統制できる力をもつ「我 atman」は存在しないと仏教では考えます。また、無我は非我(我にあらず)というニュアンスがあるそうです。自分の命も、自分の財産も、すべて自分のもののようであって自分のものでない、因縁に翻弄され思うようにならない苦しみがつきまといます。

 涅槃寂静は、仏教の理想の境地をいいます。無常であり、無我であるのが、ものの真実の姿で、それを認めないところに苦が生じるということになりますが、そのような迷妄が消えると、静かな安らぎの境地に入ることができ、それが仏教の理想とするところです。

煩悩

 そもそも煩悩とは何でしょう。除夜の鐘は108回で、それは煩悩の数だということは有名ですが、煩悩の根本は3つあります。それを三毒といい、貪瞋癡をいいます。

貪欲 むさぼること

瞋恚 怒ること

愚癡 無知でおろかなこと

 煩悩の原義は klesa (苦しむ心)で、私たちを悩まし、害し、間違いに導く不善の心を煩悩と呼びます。

無記

 お釈迦様は人生問題の解決に直接役だたない形而上学的問題について質問されても、あえて解答せず判断をしませんでした。

 お釈迦様は、他の思想家達から、世界の常・無常、有限・無限、霊魂と身体との同異、死後の生存の有無など14の形而上の質問され討論をのぞまれても沈黙を守ってあえて回答されませんでした。

 また、『マッジマニカーヤ』63経には、弟子からの形而上の質問に対して答えないことを「毒矢のたとえ」※2をもって回答しています。

論理性・脱神秘性

 宗教というと神秘的で不思議なもの。論理では語られないものという認識が一般にないでしょうか。インド土着の宗教であるバラモン教もその範疇です。ところが、歴史上のお釈迦様は神秘主義を克服し正しい論理を身につけることを説かれました。

 のちの仏教も論理的に教義を体系化し、仏教哲学の体系を構築します。

平等

 インドは四姓制度の国です。バラモン(司祭者)、クシャトリヤ(王族・武士)、ヴァイシヤ(庶民)、シュードラ(隷民)に大きく分けられた身分制度が古代より現代に至るまで続いています。お釈迦様はこの四姓制度を仏教教団内(修行僧の集まり)に持ち込ませませんでした。

因縁

 仏教では因・縁・果・報ということを説きます。原因があって、それに間接的に作用する縁があって、結果があり、報いがあります。因・縁・果・報から因縁の他に、因果、果報があります。

 因縁によってものごとの生起することを縁起といいます。「因縁生起」という言葉を略して縁起といいます。縁起(因縁生起)は一切の現象はすべて因(hetu 直接原因)と縁(pratyaya 間接原因)との二つの原因が働いて生ずるとみる仏教独自の教説でです。

 一切の現象はこういった因縁の相互関係の上に成立しているから、固定的実体や不変といったことはあり得ない。「無我」であり「無常」です。そして「空」なのです。

kosaiji.org/Buddhism/syaka.htm  から

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