山梨県大月市に「猿橋」とよばれる橋がある。ゆるいアーチのかかった木製の橋である。相模川の支流、桂川の高さ31メートルの渓谷にかかる橋で、「刎橋」の架橋形式を残す唯一現存する橋である。
猿橋は、両岸の崖がそそりたち、幅の狭い地点にある。このような場所では橋脚が作れず、また幅が狭いためその必要もなく、このような深い渓谷を渡るためには、徳島県祖谷のかずら橋で有名な、「つり橋」の形式がよく用いられる。
刎橋は、まず、岸の岩盤に穴を開け、そこに差し込んだ刎ね木を斜め上の中空に突き出し、その刎ね木を支えとして、その上に下のものより少し長めに刎ね木を突き出す。両岸からこの作業を順次繰り返しながら、ゆるいアーチ様の橋の下支えの部分を完成させ、これを足場として橋桁の部分を作り、その上に板を敷いて人が渡れるようにする。
大月市の「猿橋」では、斜めに出た刎ね木や横の柱の上に屋根を付けて雨水からこれを保護している。
日本三大奇橋の一つに数えられるが、伝説によれば、7世紀頃、百済から日本にやってきた造園博士路子工芝蓍麻呂が、猿の群れが崖をよじ登り、よった蔦を使って渓谷を渡る姿を見て橋のヒントを得たと言い伝えられており、そのことから「猿橋」と名づけられている。
芝蓍麻呂については、『日本書紀』の推古22(614)年の記事に、この年に百済からやってきた、「顔や体が斑白で、白癩の者」があり、人々が彼を嫌い海中の島に捨てようとしたが、彼が「私にはいささかの才があり、巧みに山岳の形を築くことができます」と言ったので、彼に須弥山(仏教の宇宙説にある想像上の霊山)と呉橋(アーチ式の石橋)を宮殿の南庭に造らせたとある。日本での本格的な橋梁作りのはじめである。
猿橋の巧妙な構築方についての伝説は、この記録に見える百済からの新来の架構法と関わらせることによって成立したものであろう。
飛鳥寺・法隆寺や四天王寺などの建物ばかりでなく、各地の橋、堰、港、運河、ため池などの建設に大きな力を発揮した渡来人の事蹟が、「猿橋伝説」とともに千数百年の時を経て今もなお橋そのものの静かなたたずまいの中に残されている、故なしとしない。(朴鐘鳴・渡来遺跡研究会代表、権仁燮・大阪大学非常勤講師)
朝鮮新報 より