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看話禅への招待

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012-4.gif私たちは時折、誰かからこのような質問を受けます。あるいは、ふと自らに投げかけてみることもあるでしょう。

 さあ、この問題を真剣に問い、そして確実に答えてみてください。あなた自身の本当の姿とあなたが生きる道を明確に答えてみてください。おそらく答が100あるとしても、それらはみな外れていることでしょう。このような根本的な問題は、理性によって答を出そうとしても不可能です。理性は理性自身の限界を持っているからです。そして、何よりもこれは頭によって答えることができる問題ではないからです。

 さらに問いましょう。

 どうすれば本当によく生きることができるのでしょうか?どうすれば真に自由で平安でいられるのでしょうか?どうすれば永遠の幸福を得ることができるのでしょうか?毎日を揺らぐことなく自信をもって生きることができるのでしょうか?他人とともに美しく分かち合いながら自足した生を送ることができるのでしょうか?心に傷を負うことなく、また他人をも傷つけることもなく生きていくことができるでしょうか?自然のままに柔軟に生きていくことはできないのでしょうか?

 看話禅は、このような問いに対して簡潔かつ明瞭に答を出します。そして日々を堂々と、しかも妨げなく生きる道、生き生きと生きていく道を示します。仏を目標に生きていく道を、まさにこの場で明らかにしましょう。

 自分の外にあるものに拘束され、あくせく生きている者の疲れ果てた姿を見てみなさい。

 学生たちは勉強に命をかけ、恋人たちは愛に命をかけ、生活する人はお金に命をかけ、会社員は会社に命をかけ、家族は子供と夫と妻に命をかける。このように、つらく生きている姿を見てとることができるでしょう。しかし、そのように生きている自分たちに今後どのような現実が待っているか、よく考えてみましょう。時間が過ぎて行くと、ある日突然、それらが見覚えのない顔で近づいている現実に直面することでしょう。それは、対象が自分の期待に外れ、私に深い傷を与えて離れていく冷酷な現実のためでしょう。さて、それはそもそも私がなぜ生きるのかを知らずに生きてきたためなのです。自分が無いままで生きてきたためなのです。自分が無いままで対象に執着して生きてきたためなのです。

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 対象にとらわれたり、支配されまいとすれば、自分の中心を立てなければなりません。

 私自身の大切な存在価値を見つけなければなりません。簡単に変わったり、右往左往するような、主体性のない私ではなく、どんな風にも揺らぐことのない自分、永劫に変わることのない自分、堂々とし生き生きとしている自分自身、そのような自分の本来の姿、主人公を確認しなければならないのです。そうした私の中心をしっかりと立てなければなりません。そうすれば私が対象に従うのではなく、対象や物事が私に従うようになります。それは趙州禅師の言葉のように、24時間を主体的に生きるということなのです。残念なのは、私がいつでもそれと一緒にいながらも、きちんと見ることができずにいるという現実です。

 自分自身をきちんと見据えなければなりません。

 自分自身を確認しなければなりません。

 その自分を確認する方法は、理性が介在した思考や言葉などでは駄目です。考えによって答を求めようとしても、その瞬間に的を外すことになるでしょう。

 西洋近代哲学を開いたルネ・デカルトは「私は考える。故に存在する」という有名な言葉を説きました。デカルトは誰でも認定するほかない確実で明らかな存在を求めました。探してみると、自分が考えている時は明らかに自分が存在している姿がはっきりと浮かんできたため、人間の思考作用だけが存在の確実な根拠であると説いたのです。

 でも、考えるということは理性の作用です。このような理性の作用には常に「自我」という意識がつきまとっています。この自我は自己中心的に考え、物事の是非を明らかにしたがります。いつも自分を中心として考え、自分と自分のものにがむしゃらに執着します。是非を分け、分別をし、白黒をはっきりとさせようとします。いつも自分という色眼鏡をかけて相手を見て比較します。そうすると物事の真実や全体を見ることができず、部分や表層を見ただけで、それを全体と思い込み、真理であると主張するようになります。それを本当の自分であると叫びます。その瞬間、私たちは常に事態の本質から外れているのです。

 そのため人間の理性と言葉では自分自身の本来の姿、物事の真の姿を見ることはできません。とうていそれを探す道はありません。

 思考の道と言葉の道が絶たれてこそ私たちは本当の自分自身、あるがままに現われている真理を見ることができます。そのようにする時、全体として生きている自分自身を見ることができます。ありありと生きている自分自身、自分を動かし、考えさせ、泣いたり笑ったりさせている、その本質を見出すことができるのです。

 自我が思考をするのではなく、私を動かしているそれ、その主人公が思考をするようにならなければなりません。その動きを感じなければなりません。それとともに行い、それとともに愛し、それとともに創作し、勉強をし、働き、歌わなければなりません。そうすれば、そこにはどんな邪魔もありません。自由なのです。妨げがないのです。

 看話禅は話頭(公案)を参究して修行する禅です。話頭は言葉と思考の道、心の道が絶えた、言葉以前の言葉です。考えが出てくる以前の考えです。とうてい思考と言葉が及ぶことが出来ない言葉であり、この意味では言葉ではありません。話頭は思考と言葉を遮断します。話頭は私たちの小賢しい理性の動きを防ぎ、仏の真理へと導きます。したがって話頭を参究し、それを打破すれば、理性の障壁が音を立てて崩れ、真理が現われてくるのです。

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 話頭を参究するということは、話頭が私の心の中にバシッと掛かるということです。私の全身全霊が話頭と一塊になるということです。そのように話頭と一体になると、全ての分別作用と雑念が無くなります。そのため話頭を参究して、すぐに見抜くことができれば、その場で悟るようになります。まさに仏の姿を確認します。そうなると、あなたと私が一つになり、私と虚空とが一つになります。

 また日常生活でも、話頭が私の心の中で参究を続けていると、主人公が私の中心にいることになるため、どのような状況に直面しても揺らぐことがありません。私の心の中で話頭一つだけがはっきりと動き、感情に動揺せず、理性の作用にも支配されないようになります。推し量ったり比較したりしません。相手が私に傷を与えても、それにより傷ついたり怒ったりしなくなります。

 そのようにして日常生活を平安で幸せに送ることができるようになります。そして究極的に話頭を打破すると真の自分を見ることができます。真の自分を知ることができます。生の目標がはっきりとします。どこに行こうが、今この瞬間に主体的に立っているので行く道に悩むことはありません。ですから、どこに行こうが堂々と進むことができ、自分一人でこの宇宙に「すっと」立つことができます。

 それは既に真の主人です。どんな抑圧や拘束も、それを閉じ込めることはできません。その人の肉体は閉じ込めることができるでしょうが、その人の精神と言葉は閉じ込めることはできません。

 話頭を参究し禅に入って来なさい。すぐこの場で。その瞬間、話頭が心に掛かるようになり、そして分別作用が徹底して打破されれば、それが仏なのです。私の一つ一つの行動が仏の行動そのものなのです。その仏の行動には痕跡がありません。跡を残すとすれば、それは偽者です。虚空を飛ぶ鳥は跡を残さないから美しいのです。

 韓国は、このような看話禅の修行の伝統を最もよく維持してきた代表的な国です。

 この文の内容は禅院で修行している禅師たちが中心となり、看話禅の歴史や修行方法、看話禅の精神を教えているものです。

 この文はみなさんを真理の世界へと導くことでしょう。

 再び質問します。

 「あなたは誰ですか?」

 頭ではなく体で、躊躇せずにすぐに言いなさい、言って見なさい。

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