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菩提心(二)

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まず1.の質問ですが、菩提心には二種類ある、ということをよくよく学んでいただきたいと思います。

しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。
また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。

横竪の菩提心、その言一つにしてその心異なりといへども、入真を正要とす、真心を根本とす、邪雑を錯とす、疑情を失とするなり。欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 菩提心釈 より

▼意訳(現代語版より)

ところで、菩提心には二種類ある。一つには竪[しゅ]すなわち自力の菩提心、二つには横[おう]すなわち他力の菩提心である。また竪の中に二種がある。一つには竪超[しゅちょう]、二つには竪出[しゅしゅつ]である。この竪超と竪出は、権教・実教・顕教・密教、大乗・小乗の教えに説かれている。これらは、長い間かかって遠まわりをしてさとりを開く菩提心であり、自力の金剛心であり、菩薩がおこす心である。
また、横[おう]の中に二種類がある。一つには横超[おうちょう]、二つには横出[おうしゅつ]である。横出とは、正行・雑行・定善・散善を修めて往生を願う、他力のなかの自力の菩提心である。横超とは、如来の本願力回向による信心である。これが願作仏心、すなわち仏になろうと願う心である。この願作仏心は、すなわち他力の大菩提心である。これを横超の金剛心というのである。

他力の菩提心も自力の菩提心も、菩提心という言葉は一つであって、意味は異なるといっても、どちらも真実に入ることを正しいこととし、またかなめとし、まことの心を根本とする。よこしまで不純なことを誤りとし、疑いをあやまちとするのである。そこで、浄土往生を願う出家のものも在家のものも、信には完全な信と完全でない信とがあるという釈尊の仰せの意味を深く知り、如来の教えを十分に聞き分けることのないよこしまな心を永久に離れなければならない。

billet-du-jour-2.gifこのように、一口に菩提心と言っても竪(自力)と横(他力)の二種類があり、その二種にもさらに出(漸教:長い時を経てさとりを得る教え)と超(頓教:直ちにさとりを得る教え)の二種に分けることができます。浄土真宗の信心は「願力回向の信楽」、如来よりたまわる信心で、菩提心も自力で発するものではなく、「浄土の大菩提心」つまり如来より回向された菩提心ですから、横(他力)なのです。しかも第十八願の願意に肯づくならば、決して退かない横超の金剛心を得、他力の大菩提心を直ちに発こすことができるのです。

ただし、自力も他力も、菩提心の根本的な精神は同じで、どちらも「<入真を正要とす>:真実に入ることを正しいこととし、またかなめとし、<真心を根本とす>:まことの心を根本とする。<邪雑を錯とす>:よこしまで不純なことを誤りとし、<疑情を失とする>疑いをあやまちとする」ことは変わりません。如来の教えを中途半端に学んでいたり、他力という言葉に居座って、よこしまな心を離れる気が無いならば、とても菩提心を発こすことはできないのです。

ちなみに「横超」の菩提心・金剛心は浄土真宗の教相判釈[きょうそうはんじゃく]の基本であり、これを「二雙四重[にそうしじゅう]の教判」といい、仏教における浄土真宗の立場を明らかにしています。

なお「横超」の言葉は、先に引用した『観経疏』玄義分 巻第一 帰三宝偈の最初にある「共発金剛志 横超断四流:ともに金剛の志を発して、横に四流(四種の煩悩)を超断すべし」によっています。

さらに親鸞聖人は『一念多念文意』において、『大無量寿経』に説かれた「次如弥勒」という言葉から、念仏の衆生は弥勒と同じである意を明かされます。

このように、竪漸の金剛心の弥勒と、横超の金剛心の念仏者は、さとりに至る方法は違っていても、ともに「この世ですでに不退転の位に至っており、必ず仏のさとりを開く」という立場は同じであることが述べられています。

そして、こうした菩提心をおこそうとせず、単に自身の安楽を求めて往生を願う人に対して、聖人は曇鸞大師の言葉を引いて批判されています。

王舎城所説の『無量寿経』(下)を案ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発さざるはなし。この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。このゆゑに、「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲するがゆゑに」といへり。「住持の楽」とは、いはく、かの安楽浄土は阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること間なし。おほよそ「回向」の名義を釈せば、いはく、おのが集むるところの一切の功徳をもつて一切衆生に施与して、ともに仏道に向かふなり。

曇鸞著『往生論注』巻下 解義分 善巧摂化章 菩提心釈 より

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 菩提心釈 に引用

▼意訳(現代語版『顕浄土真実教行証文類』より)

王舎城において説かれた『無量寿経』によれば、往生を願う上輩・中輩・下輩の三種類の人は、修める行に優劣があるけれども、すべてみな、無上菩提心をおこすのである。この無上菩提心は、願作仏心すなわち仏になろうと願う心である。この願作仏心はそのまま度衆生心である。度衆生心とは、衆生を摂 [おさ]め取って、阿弥陀仏の浄土に生まれさせる心である。このようなわけであるから、浄土に生まれようと願う人は、必ずこの無上菩提心をおこさなければならない。もし、人がこの心をおこさずに、浄土では絶え間なく楽しみを受けるとだけ聞いて、楽しみを貪[むさぼ]るために往生を願うのであれば、往生できないのである。だから『浄土論』には<自分自身のために変ることのない安楽を求めるのではなく、すべての衆生の苦しみを除こうと思う>と述べられている。<変ることのない安楽>とは、浄土は阿弥陀如来の本願のはたらきによって変ることなくたもたれていて、絶え間なく楽しみを受けることができるということである。

総じて、回向という言葉の意味を解釈すると、阿弥陀仏が因位の菩薩のときに自から積み重ねたあらゆる功徳をすべての衆生に施して、みなともにさとりに向かわせてくださることである。

そして聖人はこうした意を要約して以下三首の『正像末和讃』を書かれました。

浄土の大菩提心は
願作仏心をすすめしむ
すなはち願作仏心を
度衆生心となづけたり

『正像末和讃』 三時讃 (二〇)

度衆生心といふことは
弥陀智願の回向なり
回向の信楽うるひとは
大般涅槃をさとるなり

同 (二一)

如来の回向に帰入して
願作仏心をうるひとは
自力の回向をすてはてて
利益有情はきはもなし

同 (二二)

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さらに、善導大師が「専念」と言われた内容を様々に解釈して、「一心」、「真実信心」、「金剛心」、「願作仏心」、「度衆生心」、「大菩提心」のつながりを明らかにし、回向された信心が平等であり、これこそは「仏道の正因」であることを聖人は述べてみえます。

また、菩提心と仏性・如来との関連についても、涅槃経の「すべての衆生は、ついには必ずその位を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである」、「大信心は仏性であるり、仏性はそのまま如来である」の文『顕浄土真実教行証文類』を引かれ、この菩提心こそ如来の本体であることも明らかにされました。

もちろん、この大菩提心・金剛心は大経にある本願の三心、つまり至心・信楽・欲生であることは言うまでもありません。

このように、自力・他力、漸・頓の違いはあっても、菩提心は仏教の中心であり、浄土真宗においては阿弥陀如来より回向された「横超の菩提心」をおこすことが必須といえるでしょう。ただし、菩提心をおこすのも如来の願力の自然[じねん]のはたらきですから、念仏者は驕[おご]り高ぶることなく、感謝・報謝の思いを忘れず、慚愧・懺悔の念とともに菩提心をおこすことが肝心でしょう。

私論として言いますと、この心は仏教の中心ということにとどまらせず、人類のいとなみの中心に菩提心をすえて、そのはたらきを仰ぐ中で文化・文明を創造していくべきだと思います。それでこそ、世界に真の平和が訪れるのではないでしょうか。

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