平安時代の源氏物語に見られるような、貴族階級による願掛けを中心とした神社参詣がその初期形態ではないかとされ、その後仏教の末法思想の流行により、後白河法皇の熊野詣でなど浄土信仰を背景とした極楽往生を願う巡礼へと変化し、中世に入ると、戦乱や貧困の中で一般階級による巡礼も行なわれるようになった。近世に入ると平和な世の中を反映して、人々は現世利益を求めるようになり、旅行の要素も加わって大衆化した。伊勢神宮などの大寺社では御師(おんし)と呼ばれるツーリストが誕生し、宿坊と共にそれぞれの担当地域の巡礼者を案内していた。
歴史
長谷寺の徳道上人が養老2年(718年)、病の床での夢に閻魔大王が現れ、「世の苦しむ人々のために三十三箇所の観音霊場を作って巡礼を勧めよ」と言い、起請文と三十三の宝印を授けた。夢から覚めた上人は宝印に従い三十三箇所の霊場を設けるが、世の信仰を得ることが出来ず発展しなかったため、宝印を摂津中山寺で石棺に収めたと伝えられる。
寛和2年(986年)19歳で出家した花山法王は比叡山で修業の後、三十三箇所観音霊場巡礼を発願し、書写山円教寺の性空上人と共に中山寺で石棺の宝印を捜し出して永延2年(988年)に紀州熊野から宝印の三十三箇所霊場を巡礼し再興を祈願した。これが現在の西国三十三箇所の起源といわれている。
熊野への巡礼は、日本書紀の一書にイザナミノミコトが紀伊国の熊野に葬られたとされていること、熊野の語源説の一つに「クマ=こもる」で「死者が籠る地」があることで、熊野を死者の国とみる考え方がおこり、平安末期の浄土信仰における極楽浄土の地としてとらえた。奈良時代より修験道の修行地となっていた熊野三山の本宮を阿弥陀如来の西方極楽浄土、新宮を薬師如来の東方浄瑠璃浄土そして那智大社を千手観音の南方補陀落浄土として現世の浄土の地と考えることでその信仰が深まったと考えられる。
源頼朝が深い観音信仰を持っていたことから西国に倣って坂東三十三箇所霊場を発願、実朝の代になって成立したものと考えられている。福島県の八槻都々古別神社観音像の墨書銘に、僧成弁が三十三箇所巡礼中に八溝山観音堂での三百日参篭中別当の求めによって天福2年(1234年)に観音像を作ったとある。このことからこれ以前に坂東三十三箇所が成立していたとみられる。
ウィキ から