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死がそんなに恐ろしいとは思えぬのはなぜか

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御承知のように我々の肉体は、細胞から組み立てられています。一説によれば、60兆もの細胞によって、1人の肉体は形成されているそうです。

しかも細胞はたえず新陳代謝しています。そして大体7年間で一切の細胞は入れ代わるそうです。すると凡そ7年もたつと、我々は物質的に全然変わったものとなります。7年前の自分とは別人ということになります。然るに実際は別人の感じは致しません。

してみれば、7年前の自分と今日の自分との間には、何か一貫して変わらないものがあると見なければなりません。すなわち、細胞を統一している主体というものがなければなりません。いくら年をとっても、気だけは若い感じがするものです。

これは統一的主体としての自己があって、それは肉体の老化と関係なく、永遠の青年であるからです。これを仏教では、阿頼耶識とか業魂といいます。いわゆる肉体が亡びても、永遠に亡びない不滅の生命です。

滅亡寸前の南ヴェトナムで最後の首相となり「最後の一兵まで祖国を死守せよ」と絶叫したグエン・カオ・キ氏が燃えさかるサイゴンを尻目に、米空母へ逃げこんだとき、「逃げた男を叱った男が逃げて来たよ」と、アメリカ人に笑われました。彼は今アメリカで酒屋のおやじをしているそうです。

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日本でも例外ではありません。特攻隊を送り出した将軍が、自分で転任令を書いて逃げ帰った人もあります。「死や死後」の問題を近代合理主義は「知りえざるもの」として否定しましたが、死滅しませんでした。反ってこの問題は内攻して近代人の大きな傷みとなっております。

今日、死病に罹ると死病だということを、本人には知らせないことになっています。近親者は、「大丈夫ですよ、先生はもうすぐ良くなるとおっしゃっておられますよ」と口を揃えます。生命の終わりに際して近親者から最大のウソをつかれ、だまされて死んでゆくのですが、それほど死は人間にとっては恐怖であり、残酷なものだからでしょう。

私たちは種々の人の死を見聞して来ました。親しい人の死には声をあげて泣き、涙を流して悲しみました。しかし、しばらくすると涙は乾き悲しみも薄らぎます。そしてどんな悲しい時でも、死んでゆく本人の悲しみや寂しさを、自分自身のことのように切実に受けとめたことは、1度もありませんでした。なかったというよりも、できなかったというのが適当でしょう。

「死」は「ある出来事」であり、「事件」であって所詮は「他人事」でしかなかったのです。その死がいよいよ自己の上にふりかかって来ると、「死」に対する実感はコロッと異なります。「今までは他人が死ぬぞと思いしに、俺が死ぬとはこいつたまらん」とある医者が叫んだように、動物園で見ていた虎と、ジャングルの中で突如出会した虎とは、雲煙万里の違いがあるようなものです。

医師から、至急手術をしなければならぬといわれたとき、眼前が真っ暗になり、脚元が崩れるような気がしたとよくいわれます。それは手術が怖いからではなく、死ぬのが怖いからです。病院へ入る、手術を受ける、腹が切り開かれ血が沢山噴き出る、あと縫い合わせてうまくゆくかどうか、医師や看護婦に絶対失敗はないか。

診断の間違いや、手術のミスや、ちょっとした手落ちで死ぬことがある。腹を開けてみたら思ったより重症で手術できず、そのまま縫い合わせたという話も聞く。自分の場合もそうではなかろうかという不安におそわれます。

死ねばどうなるのだろう。他人は私の死体を火葬場に運び、焼いて灰にするだろう。この肉体が灰になるとは、とても信じられない。目が見えなくなる。物音が一切聞こえなくなる。自分というものがなくなる。

こんな恐ろしいことがありましょうか。「助けてくれ助けてくれ」そういって、そこら中を這いずり廻って助けを求めたい気持ちになり、ただ怖いだけです。平生どんなに、理想とか真理とかを口にし、知識や教養を山積みしていても、すべてが音をたてて崩れ去り、何の支えにもならないことが、そのときハッキリと知らされるでしょう。

「忘れていた、忘れていた、やがて死ぬ身であることを……」と叫んだ文豪もあります。そうなってから驚いても手遅れです。人間はみな死ぬ、分かり切ったことです。しかし、だれしも直ぐ死ぬとは考えていません。ということは、誰でも本当に自分が死ぬとは思われないということです。知識では知っていても、実感が全くないのです。

己の死の直前まで人間はそのことについては、完全な目隠しをされているのです。だからどれほど想像力を逞しくしても、死の実態には遠く及ばないものなのです。その「目隠し」をはずされた時の恐怖は、「目隠し」されていた時のそれどころではないことを、弥陀の光明によって調熟せられ一刻も早く照破していただかなければ、後生の一大事は分かりません。

shinrankai.or.jp/qa/qa0107.htm から

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