今でこそ,お坊さんが肉や魚を食べてもなにもいわれませんが,昔の日本では,僧の肉食(にくじき)が禁止されていたため,“生臭坊主”なんて非難されたものです。しかし明治維新後,僧侶の妻帯・肉食等の許可が発令されました。
仏教が始められた頃は肉食は禁じられていなくて,実は,お釈迦さまも肉を食べていたらしいのです。当時のお坊さん(出家修行者)は,お金を稼ぐことやものを作ることはしませんでした。これでは生きていけません。そのため,毎日家々を廻り歩いて,食べ物や生活用品等の供養によって生活していました(托鉢<たくはつ>,乞食<こつじき>といいます)。そして供養の食べ物は,原則として,なんでも食べなければいけませんでした。肉をもらったら肉を食べるし,腐ったものも食べていたようなのです。
ですが,どんな肉でも食べていい,というわけでもありませんでした。生活規則である戒律には「肉を食べてはいけない」という決まりはありませんでしたが,「生き物を殺してはいけない」という戒律はあったのです(これを不殺生戒<ふせっしょうかい>といいます)。肉を食べるということは生き物が殺されることを意味し,それを食べる人は,自分では殺さなくても,間接的には殺生に関係していることになるのです。そのため,
1.自分が食べるために殺されるのを見なかった肉。
2.自分が食べるために殺されたと聞かなかった肉。
3.自分が食べるために殺された疑いがない肉。
という三種類の肉(三種浄肉<さんしゅじょうにく>)のみを食べることが許されました。これ以外の肉,たとえば,自分のために殺されるのを見た肉は不殺生戒を犯すと考えられたため,食べることを許されなかったのです。ちなみにタイ,ミャンマー,スリランカなどの南方仏教のお坊さんは,現在でも,このような古くからの伝統を守った生活を送っています。
はじめは肉食を許されていたのに,なぜ禁じられるようになったのでしょうか?
大乗仏教になると慈悲(じひ)がより強調されてきます。不殺生についても拡大解釈されるようになって,たとえ食べるためであっても生き物を殺してはならない,というような考え方が出てきました。そして「肉を食べない」という戒律ができたのです(『梵網経<ぼんもうきょう>』に説かれる大乗仏教の戒律で,四十八軽戒<しじゅうはちきょうかい>のうちの第三)。
またある大乗経典では「あらゆる生き物は輪廻しているので,過去に自分の親・兄弟であったかもしれないし,未来にそうなるかもしれない」というようなことが説かれ,“肉食の禁止”の根拠にされたりもしています。おもしろいことに,こうした考え方は大乗仏教だけではなく,同じような考えが古代ギリシアにも存在していました。
ピュタゴラスという人をご存じでしょうか? そうです。あの「ピュタゴラスの定理」を発見したといわれている人です。彼は,霊魂の不死や輪廻転生(りんねてんしょう)を信じ,ある子犬がぶたれているのを見て,
よしなさい! ぶつのではない。泣き声を聞いて,私の友人の魂とわかった。といったとされています(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者伝記集』8・36)。
このように輪廻思想と肉食とはけっこう深く関わっているのかもしれませんが,ギリシアや仏教では植物にまではあまり関心が及ばなかったようです。仏教と同じ頃に成立したジャイナ教では,徹底した不殺生が説かれ,植物を食べる場合にもかなり厳しい決まりがあるのです。
それはともかくとして,肉食の禁止は中国で徹底され,それが日本にも伝わってきたわけです。かなり早い時代から,お坊さんの肉食は法律として禁止されていましたし,一般人にも大きな影響を与えたのです。たとえば,江戸時代の人々は魚や鳥の肉は食べても,いわゆる“獣”の肉をあまり食べなかったのは,このような考え方の影響でしょう。「生類憐みの令」などは有名ですね。
現代人のわれわれからすると,「肉を食べない」なんてバカバカしいことに思えるかもしれませんが,反面,こうしたタブーのおかげで精進料理を発展させたわけですから,食に関するタブーも善し悪しかもしれません。また他の宗教でも,戒律上の理由から,特定の食材を食べないこともありますから,このようなタブーがあっても不思議ではないわけです。
現在の日本でも,たとえば禅宗の寺院などでは肉食を禁じて精進料理のみ,というところもありますが,多くのお坊さんは肉を食べています。これはある意味で,初期の仏教の教えに返った,といえないこともないかもしれません?
evam.ne.jp/evam/evam/faq/basic/cook/index.html から