日本の仏教は、アジアの中でも随分と異色のところが多い。第一に、僧侶の肉食妻帯。厳格な地域では一般の信者でも精進料理しか食べないのに、 僧衣を着た坊さんが平気で肉を食べているのは、随分と異様に見えるようだ。第二に、葬式仏教。仏教寺院というとふつうには墓地があり、僧侶のいちばんの仕事は墓地の管理をして、 葬式や法要をすることだと思われている。これも他の仏教国には見られない。第三に、神仏習合。神社でもお寺でも同じように参詣して手を合わせる。 二つの宗教をかけ持ちしているようで、日本人はきわめていい加減だ、ということになる。このように、日本の仏教のあり方は外から見ると相当に奇妙で、しばしば顰蹙を買うことになる。
しかし、それではそのような日本の仏教はおかしいと、簡単に否定してしまっていいのかというと、それほど単純でもない。僧侶の肉食妻帯は確かに 他の仏教国ではあまり一般的ではない。しかし、明治以後の近代化の流れの中で、肉食妻帯することによって僧侶もふつうの人と同じような生活をし、 世俗社会の中に溶け込んで活力を得てきた。明治の頃には、積極的に僧侶の結婚を勧め、夫婦を単位とした新しい仏教を作るべきだという主張もなされた。 このような動向は中国や朝鮮の仏教にも影響を与えた。
葬式仏教も悪いとばかりはいえない。葬式や墓地は、人が死や死者と関係を持つきわめて得難い機会であり、場所である。人は死すべきものだということこそ、 仏教のもっとも根本の認識であり、出発点のはずである。ところが、近代化の中で、人はともすれば死の問題を遠ざけ、生を貪ることをよしとしてきた。
否定でも惰性でもなく
仏教がそのような近代的な人間観に疑問を突きつけることが可能とすれば、まず葬式や墓地の見直しから出発しなければならないのではないだろうか。
神仏習合にしても、日本に仏教が伝来して以来の長い経緯を持つもので、それが二つの別々の宗教に分けられたのは、明治の神仏分離によるきわめて人為的で無理な政策によるものであった。 日本のみならず、東アジアにおいては仏教は単独の宗教ではなく、儒教や道教などと交渉しながら発展してきている。 とりわけ日本の神仏習合は、神仏が緊密な構造を構成していて、近代に外から持ち込まれた宗教観で切り分けることはできない。
このように、日本の仏教のあり方はそれなりの必然性をもって展開してきているのであり、他の地域の仏教と違っているからといって、単純に否定的に見る必要はない。 しかしまた、過去の仏教の形態がそのまま惰性的に未来に続いていくというわけでもない。
日本の中だけでなく、世界の中で仏教への関心が高まりつつある現代に、伝統を生かしながらも、世界に目を向けた新たな仏教の構築が求められている。 それは、与えられた既存の制度を墨守することではなく、ひとりひとりの切実な願いから新たに作り直され、生み出されていくものでなければならないであろう。
(文・末木 文美士 すえき・ふみひこ 一九四九年、山梨県生まれ。専門は仏教学。著書に『日本仏教史』『思想としての仏教入門』など。東京大学大学院教授)
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